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【五月祭おすすめ企画③】最先端の研究を分かりやすく解説

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10分で伝えます!東大研究最前線

東京大学大学院生詰め合わせ

@工学部3号館31号講義室

両日午前10時〜午後530

 

熱のこもった発表に多くの聴衆が聞き入る

 

 コーヒーにミルクが入ったまろやかなカフェオレ。一度混ざると、元のコーヒー、ミルクには戻らない。なぜだろう?

 

 そんな導入で始まった話は、いつの間にか熱力学第二法則の説明に移っていた。最後は「原子を操る悪魔」が登場。一見とっつきづらそうな理論物理の最新研究を明快に説き、濱崎立資さん(理学系・博士3年)の講演練習は幕を閉じた。「分で伝えます!東大研究最前線」では、こんな大学院生の講演がテンポ良く展開される。

 

 大学教員や助教は予算集めや研究室運営などに忙殺されがちで「気兼ねなく、最前線で研究できるのは大学院生なんです」と運営統括の武田泰明さん(工学系・博士3年)。そんな気鋭の研究者たちが「自ら最先端の研究に取り組むからこそ語れる」、自身の研究やその周囲の「面白いと思うこと」を、中高生にも分かるように話していく。

 

 

 来場者を引き込む講演を作るのは簡単でない。2度の練習会では他の講演者から厳しい指摘を受け、分かりやすい講演を徹底的に追求した。冒頭の濱崎さんの講演も「熱力学第二法則の話で聴衆の半分は置いていかれる」「一番伝えたいスライドはどれか明確に」などと指摘を受け、構成を再考することに。「『ここが面白いんじゃない?』と指摘されて、自分の研究の魅力や意義に気付かされたこともありました」と鈴木雄大さん(理学系・修士2年)。異分野を学ぶ学生が集うからこそ、日頃の研究にも役立つ気付きが得られる。

 

 「深さ・広さ・分かりやすさ・とっつきやすさの全てを兼ね備えた、質の高い講演ばかりです」と鈴木さんは自信を見せる。若き研究者たちによる、洗練された発表をご覧あれ。


この記事は、2019年5月14日号に掲載した記事の転載です。本紙では、他にもオリジナルの記事を掲載しています。

インタビュー:渋滞学・無駄学の第一人者に聞く 流れを見渡す重要性 西成活裕教授(先端科学技術研究センター)
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企画:虫を利用したリサイクル 総長賞受賞者たちの研究①
企画:歴史の審判を待つ 日本史の観点から探る出典選定の意図
企画:本郷キャンパスマップ
サーギル博士と歩く東大キャンパス:①本郷キャンパス赤門
キャンパスガイ:内山修一さん(工・4年)

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【五月祭おすすめ企画④】情熱のステップで観客に衝撃を

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東京大学フラメンコ舞踏団五月祭公演

東京大学フラメンコ舞踏団

@工学部広場ステージ(18日) @医学部広場ステージ(19日)

18日午後2時〜2時40分、19日午後0時45分〜1時25分

 

華麗なステップを披露した昨年の五月祭公演

 

 踊りや歌、ギターの伴奏を主体としたスペインの伝統的な踊り、フラメンコ。「踊りに目が行きがちですが、歌やギター、手拍子などさまざまな音が絡み合ってフラメンコを構成しています」とフラメンコ舞踏団で代表を務める山崎双葉さん(文・3年)はその面白さを語る。

 

 今回の公演では6曲を披露する予定。入ったばかりの新入生も交えた、定番の「セビジャーナス」で始まり、炭鉱夫の嘆きの歌「タラント」と、杖でリズムを取り重厚感のある「マルティネーテ・シギリージャ」の2 曲を熟練の上級生が踊る。そして2 年生による、牧歌的な「ファンダンゴ・デ・ウエルバ」、拍子が特徴的な「グアヒーラ」と明るい曲調の2曲が続く。最後はスペイン語で宴の終わりを意味する、即興性の高い「フィン・デ・フィエスタ」を全員が交代で踊り、ラストを飾る。

 

 普段は主に週2回駒場で練習。毎週2人の講師を招き、基礎から振り付けまでを見てもらえるという。フラメンコの難しい点は「振り付けと音楽を合わせること」と山崎さん。釘が打ち込まれた靴で音を鳴らして踊るが、ステップを踏んで音を鳴らす技術は習熟に時間を要するという。しかし「自分自身も楽器になってリズムを作っていくのが最大の魅力です」と楽しそうに話す。

 

 主な発表の機会である五月祭、駒場祭共に、毎年訪れる常連客がいるほどの人気企画。いまだに日本でフラメンコの知名度が低いことに触れ「半年間の練習の成果を発揮したいです。私が初めてフラメンコを見た時のような衝撃を与えられる公演を目指します」と意気込む。五月祭当日、青空に映える鮮やかなフラメンコが楽しみだ。


この記事は、2019年5月14日号に掲載した記事の転載です。本紙では、他にもオリジナルの記事を掲載しています。

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キャンパスガイ:内山修一さん(工・4年)

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【五月祭おすすめ企画⑤】誰でも楽しめる新感覚球技

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バブルサッカー体験会

東京大学バブルサッカークラブ

@農学部グラウンド(18日) @御殿下グラウンド(19日)

両日全時間帯(雨天中止)

 

バブルサッカーのプレー風景。激しく動いても安全だ

 

 バブルサッカーというスポーツをご存知だろうか。約10年前に誕生したばかりの新しいスポーツだ。ルールは基本的にフットサルと同じだが、一番の違いはバンパーと呼ばれる透明の巨大なビニールの球体に身を包んでプレーする点。フットサルでは接触プレーなどによるけがの恐れがあるが「バンパーを被っていれば、ボールが当たっても転んでもほとんど痛みはなく安全」と代表の帯田秀樹さん(理I2年)は話す。

 

 五月祭では、来場者どうしで実際にバブルサッカーの試合を体験する企画を実施する。まだ試合への参加が難しい小さな子供向けにも、部員とボールを転がすなどして遊ぶ場を提供する予定。五月祭総選挙で入賞経験があるほど、毎年大盛況の企画だ。

 

 バブルサッカーの魅力については「老若男女誰でも一緒に楽しめる」点を挙げた。女性でも、ボールを持つ男性を体当たりで吹き飛ばすことができる。バンパーを被っていると、思い通りにボールを動かすのは難しいため「サッカー未経験でもあまり気になりません」。部員も半数以上はサッカー未経験者だという。

 

 普段は毎週金曜日の午後7〜9時に、駒場のラグビー場で練習している。主に実戦形式の練習を行い、大会が近づくと戦術も意識するが「ゆるめに楽しい雰囲気で活動しています」と帯田さんは語る。

 

 大会は年に1〜2回、高校生や社会人と混じって行う程度で「バブルサッカーはまだまだマイナー」だという。東大以外の大学でサークルがあるのも静岡大学のみだ。「普段バブルサッカーをする機会はなかなかないと思うので、気軽に足を運んでバブルサッカーというスポーツを楽しんでもらいたいと思います」


この記事は、2019年5月14日号に掲載した記事の転載です。本紙では、他にもオリジナルの記事を掲載しています。

インタビュー:渋滞学・無駄学の第一人者に聞く 流れを見渡す重要性 西成活裕教授(先端科学技術研究センター)
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企画:本郷キャンパスマップ
サーギル博士と歩く東大キャンパス:①本郷キャンパス赤門
キャンパスガイ:内山修一さん(工・4年)

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サーギル博士と歩く東大キャンパス① 本郷キャンパス赤門

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 我々が日々当たり前のように身を置いている「場」も、そこにあるモノの特性やそれが持つ歴史性などに注目すると、さまざまな意味を持って我々の前に立ち現れてくる。この連載企画では、哲学や歴史学、人類学など幅広い人文学的知見を用いて「場」を解釈する文化地理学者ジェームズ・ サーギル特任准教授(総合文化研究科)と共に、東大内のさまざまな「場」について考えていこうと思う。初回は、本郷キャンパスの赤門に着目した。

(取材・円光門)

 

ジェームズ・サーギル准教授(総合文化研究科)

14 年 ロンドン大学大学院博士課程修了。Ph.D.(文化地理学)。ロンドン芸術大学助教授などを経て、17 年より現職。

 

門が作る「不在」と「摩擦」

 

 「なぜ有る物があって、むしろ無ではないのか?」 これは、見えないものは「不在」であるとした哲学者ハイデガーの言葉だ。赤門周辺の空間を考える上で興味深いこととして、サーギル特任准教授は赤門の出入り口における「空間の不在」に注目する。東大キャンパスの他の門とは違って、赤門は上に屋根を構え左右を重厚な塀に囲まれている。よって赤門前に立って東大構内をのぞく時、門の枠や塀で覆い隠されている向こう側の世界を見ることはできず、それらは我々にとっては不在であるといえる。しかし門をくぐり抜けるという行為を通じて世界は我々の眼前で展開し、不在は転じて存在になるのだ。

 

 「不在は存在を通じて認識され、逆もまたしかりです」とサーギル特任准教授は語る。言い換えれば、赤門に覆い隠され「不在」となっている空間を把握することで、赤門からのぞくことのできる東大構内の風景があくまで全体の一部であることが理解され得るのである。こうした「空間の不在」への理解が、まだ見えぬものを見ようとする我々を門の中へと誘い入れる。

 

 赤門は人々を招き入れるが、同時に人々を制限するというパラドックスを抱いているとサーギル特任准教授は指摘する。文化地理学者クレスウェルは渋滞や空港の出国ゲートといった人々の移動を阻害するものを「摩擦」と呼んだが、サーギル特任准教授によると 赤門もまさに入ろうとする人々の動きに制限という 「摩擦」を生じさせる。

 

赤門は「不在」を作ると同時に、人々の動きに「摩擦」を与える

 

 赤門には一つの大扉と二つの小扉があるが、開いている扉によって、人々の視界や動作は異なる。というのも、門という枠組みを通じてしか、人々は向こう側の風景を見られないのであり、向こう側に行くことができないからだ。ハイデガーは「ゲシュテル(枠組み)」という言葉を使って、存在の在り方が環境によって規定されていることを説明した。赤門が持つ構造は人々の身体の動きを制限し、規定するゲシュテルなのである。

 

 さらにサーギル特任准教授は人類学者ターナーが提唱した「リミナリティー」という概念を引用する。これは越境的な変化を指す概念で、ターナーは、神社や教会といった人間がそこに踏み込めば日常から脱却する変化を経験する場をリミナルな場とした。だがサーギル特任准教授は大学もまた、俗世間から離れ学術に従事するという点でリミナルな場であると考える。赤門はまさにそのような二つの場の境界線として機能しているのだ。

 二つの異なる領域の間には、物質的でないにしろ何らかの壁がある。別の領域に入るためには門が必要だ。しかし、気を付けなければならない。確かに門は「空間の不在」を形成することで人々を中へと招き入れる働きを持つが、まさにその形成された不在によって人々の動きに「摩擦」を生じさせる。

 

 グローバル化が進む現代社会での身近な壁の例として、異文化を思い浮かべる人もいるだろう。それはトランプ大統領が提唱するような現実の壁でも、誰もが心の内に持つ壁でもある。

 

 一般的に、異文化間には壁ではなく門を設置することが交流の第一歩だろう。だが安易に異文化交流をうたった結果、交流相手はあくまで非日常的な「リミナルな場」を提供し我々を楽しませてくれる人たちという認識を広めることにはならないか。あるいは、実際に門に入ろうとすると摩擦が生じ、逆に壁がより強調されることにはならないか。異質な者同士の交流において、壁と門という枠組みから離れた先に何を見据えるべきか、赤門を見ながら考えてみてもよいかもしれない。

 

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Take a Walk through Todai’s Campuses with Dr. Thurgill #1 Akamon, Hongo Campus


この記事は、2019年5月14日号からの転載です。本紙では、全学部・大学院ごとの就職先詳報や、他にもオリジナルの記事を掲載しています。

インタビュー:渋滞学・無駄学の第一人者に聞く 流れを見渡す重要性 西成活裕教授(先端科学技術研究センター)

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Take a Walk through Todai’s Campuses with Dr. Thurgill #1 Akamon, Hongo Campus

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  We, without doubt, lay ourselves in “places,” which, if we heed the specialty of things therein or the history therewith, appear to us as having a variety of meanings. In this serial article, we aim to contemplate various “places” found in Todai’s campuses with the cultural geographer Dr. James Thurgill, who interprets “places” by employing a knowledge of the humanities that spans philosophy, history, anthropology, and so on. Our first meeting is at Akamon in Hongo Campus. (Interviewed, Written and Translated by Mon Madomitsu)

 

Dr. James Thurgill Graduated from the graduate school of University of London in 2014. Ph. D (Cultural Geography). After serving as an assistant professor at University of the Arts London, from 2017 he is a project associate professor of the University of Tokyo.

 

  “Why are there beings at all instead of nothing?” This is a question posed by the philosopher Martin Heidegger, who regarded what we do not see as “absence”. Dr. Thurgill pays attention to “spatial absence” at the entrance of Akamon as an interesting point to consider the space around the famous gate. Unlike other gates in the Todai campus, Akamon is roofed and is surrounded by a thick wall (see below). As such, when we stand in front of Akamon and look into the Todai campus, we cannot see the world beyond, which is veiled by the gate’s frame and wall, and so it appears to be absent to us. The action of going through the gate, however, allows the world beyond to unfold before us, and thus absence turns to presence.

 

   “Absence is recognized through presence, and vice versa,” says Dr. Thurgill. In other words, by grasping the space that is veiled by Akamon and which thus appears “absent,” we come to understand that the landscape of the Todai campus, as it is perceived through the gate, is but a part of the whole. Such an understanding of “spatial absence” invites us to see what is still unseeable, to imagine what lies beyond the gate.

 

  Dr. Thurgill points out that the Akamon embraces such a paradox, inviting people to enter while simultaneously regulating their movement and vision. Cultural geographer Tim Cresswell has suggested that a disturbance to people’s mobility, such as traffic congestion or airport departure gates, is a type of “friction”. According to Dr. Thurgill, the Akamon also produces friction by regulating the movement of people who pass through it.

 

Akamon produces “absence”, and also adds “friction” to the movement of people.

 

  Akamon has one large door and two small doors (see above),and according to the door that is open, people’s view ofand movement inthe space will differ. It is only through the gate─the framework─that people can view the landscape beyond and move towards it. Heidegger used the word “Gestell”─framework─to explain that the way of being is prescribed by environment. The structure of Akamon is indeed Gestell, which regulates and prescribes the movement of people’s physicality.

 

  In addition, Dr. Thurgill, employs the concept of “liminality”, proposed by the anthropologist Turner. This concept points to a transgressive change, and Turner regarded places such as shrines or churches, where people enter and experience a transformation that makes them move away from their daily life, as “liminal places”. Dr. Thurgill, however, thinks that the university is also a liminal place, for people there retreat from the mundane world and engage in academic life. Akamon indeed functions as a boundary line between two such places.

  Between two different regions, there exists some sort of a wall, if not a physical one then one that is imagined. In order to get access to another region, we need a gate. Nevertheless, we should be careful when following the path through it. By composing “spatial absence”, the gate certainly has a function that invites people into it, yet through nothing but the composed “absence” it engenders, it produces friction on people’s movement.

 

  In today’s globalizing society, it is not difficult to think of a “different culture” as an example of a “wall” which is close to us. Such a wall may be physical, as President Trump proposes, or imagined, existing only in one’s mind.

 

  Generally speaking, placing not a wall but a gate between different cultures is the first step toward interaction. If we take “cross-cultural exchange” too flippantly, however, might we not end up spreading the belief that those we interact with are no more than people who entertain us by providing us with an extraordinary “liminal place”? Or might we not end up producing friction among those who are about to move through the gate and consequently emphasizing the wall more than what is beyond it? In case of the interaction among different individuals, what should we suppose beyond the framework of wall and gate? Such questions are worth contemplating while enjoying the view of Akamon.

 

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サーギル博士と歩く東大キャンパス① 本郷キャンパス赤門

東大入学式2019・上野祝辞アンケート分析② 回答理由の記述から

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 東京大学新聞社は、2019年度学部入学式で上野千鶴子名誉教授が述べた祝辞について、東大内外の全ての人を対象にアンケート調査を行い、東大生(院生含む)603人を含む4921人から回答を得た。この調査では、祝辞を評価したか、学部入学式にふさわしいと思うかを5段階で回答した後、回答の理由を任意で記述できるようにしていた。この記述から、祝辞を個々人がどのように受け止めたのかより詳細に探りたい。

(構成・山口岳大)

 

【関連記事】

東大入学式2019・上野祝辞アンケート分析① 回答傾向の分析から

 

2019年度入学式

 

※凡例

・基本的に原文を尊重し、表記統一は施していない。

・各意見の末尾には、所属・職業と性別、「祝辞を評価するか」「祝辞は学部入学式にふさわしいと思うか」への回答を付記している。

 

◇東大生の回答

 

環境要因、ジェンダー問題の提起に支持集まる

 

 祝辞を評価した東大生の理由記述では、主に二つの側面に注目が集まった。

 

 第一に、「がんばれば報われる」と思えること自体が環境のおかげだと上野名誉教授が述べた点だ。

 

地方公立高校出身の学生として環境が進学に与える影響は非常に大きいと感じる
また女子学生が男子学生よりも実家を離れることが難しい現状も存在する
何らかの理由で東京大学に入学できた私達は多少なりとも社会を良くしていく責任を負うべきだと思うから

(法・4年、男性、「たいへん評価する」「たいへんそう思う」)

 

将来リーダーとなっていくであろう東大新入生に、入学という個人の成功が自分の力だけではないということを自覚させ、弱者とされる人への配慮を促したものだったから。

(理Ⅲ・1年、男性、「評価する」「どちらとも言えない」)

 

 第二に、東大のジェンダーの問題を提起した点だ。

 

東大女子や女性、またマイノリティが社会において置かれている状況を非常にうまく表していると思う。上野先生が東大生の性差別の例として出したものは私が日頃から性差別として意識していたものだった。また、そのような状況を改善するために東大生が何をすべきか強く打ち出していて、私個人は非常に共感でき励まされた。さらに、私は1年生の時に会った東大生が保守的で性差別的なことをいう人が多く、東大に入らなければよかったと心底思ったので、上野先生の、このようなスピーチを東大が入学式の祝辞に選んだという点で、東大に希望を持つことができた。

(養・3年、女性、「たいへん評価する」「たいへんそう思う」)

 

東大生は幸か不幸かホモソサエティーな空間であり、一般に社会をリードするようなポストに就く人が多い。しかし、そのような人々に(だけではないが)ジェンダー意識が欠けていることは多い。入学式という場ではあったが、彼ら彼女らに強制的に非常に大切だが、見えにくく、意識しづらいジェンダーの話をしたことには、大変意義があるのではないだろうか。

(教育学研究科・修士1年、男性、「評価する」「どちらとも言えない」)

 

 こうした性差別の側面への言及が多数を占める中、祝辞が、フェミニズムにとどまらずメリトクラシー(人を業績で評価する考え方)批判へ移行していると捉えた意見もあった。

 

一見すると上野の祝辞は女性差別の問題を批判するフェミニズム的な紋切り型のものだと思われるかもしれないが、それだけではない。フェミニズムの問題からメリトクラシー批判へと移行しているように私には読める。東大生というある意味で学力しか取り柄のない私たちには、他の人たちと全く同じように苦手なこと、誰にも言えない悩み、そういうものが当然つきまとう。学力や就職偏差値、年収、そのような画一的な物差しのなかで競争をしている間は、その物差しに照らした優劣でしか他人のことをそしてまた自分のことも測ることができない。それはとても息苦しい生き方だ。大学では、社会に強制されるようなかたちで与えられた尺度ではなく、むしろ自分に相応しい尺度を見つけること、そしてその尺度というものが多様であることを認識したうえで、自分も他者も一面では強い人間でありまた他面では弱い人間であることを認める。上野の祝辞はそのような大学的な知へのエールだと私は読んだ。

(人文社会系研究科・修士2年、男性、「たいへん評価する」「たいへんそう思う」)

 

 祝辞の内容にとどまらず、祝辞が及ぼした影響に目を向ける意見もある。

 

祝辞そのものの内容に加えて、社会的な影響の大きさ。議論を生んだこと。なにより、今年東大に入学した1年生は女性差別について発言、議論しやすいのではないかと思う。あるいはそれ以外の差別問題、社会問題についても。

(法・3年、男性、「たいへん評価する」「たいへんそう思う」)

 

現状の男女平等が進みつつある世界で日本がそれに遅れていることは確かであり、世間の注目するこの場でこの問題に言及すること自体が世間における議論の活発化に繋がると考えられるため。

(理Ⅱ・1年、男性、「評価する」「そう思わない」)

 

データや表現の恣意性に反発

 他方、これらの面をたたえつつも一定の留保をつける意見が目立った。

 

本来伝えたかったであろうメッセージはふさわしいと思うが、全編にわたり散見される言葉選びや不十分なデータから強引な解釈を導くなどの問題点が些細なものではなく強烈な印象を残すものであり、反発を招いたと考える。男女の性差を除くことは今日盛んに議論されている問題であり、祝辞においても挙げられたように東大でも女子学生が少ないなどの実感が得られる。しかしこの議題はこれまでの社会のあり方や固定観念に沿うものではないため、些細に注意を払った議論がなされなければ、過激化して本来の思想とはかけ離れた思想をもった一部のフェミニストのような印象を与えてしまう。特に新入生に問題を投げかける祝辞という場面であったことも考えあわせると、今回の祝辞は内容の選び方についてあまりに慎重さを欠いたものであったのではないかと思う。

(養・3年、女性、「どちらとも言えない」「どちらとも言えない」)

 

 祝辞に否定的な回答をした理由としては、こうした恣意(しい)的な根拠づけに対するものの他、新入生を祝うはずの入学式にふさわしくないという意見もあった。

 

知らなければならない重大な問題について新入生に説明したのは良いが、少々言葉選びが過激だと感じる点があったため。
当日、自分自身男の新入生としてはかなり耳が痛く、別の機会にじっくり聞きたい、と思っていた。

(文Ⅱ・1年、男性、「評価する」「どちらとも言えない」)

 

 その他、既存の東大内の問題を東大・東大男子学生への偏見という形で新入生に押し付けているのではないかという意見、教育格差や経済格差など女性差別以外の要素にも目を配るべきだったという意見が散見された。

 

最終的な結論自体は良いと思うが、そこに至る推論が不適当。他大入試での女性差別、テニスサークルの東大女子差別、集団強姦事件、合コンでのモテ方など、新入生が今まで関与していた話ではない。これから是正していってほしいというのなら分かるが、東大・東大男子への偏見と一般化して新入生に押し付けるのは呪詛的でお門違い。(むしろその偏見は除かれるべきものではないのか)ましてやオーラルコミュニケーションであることを考えれば、新入生が身に覚えのない説教をされているように感じるのは当然。
東大生が環境面で下駄を履いていることや、女性学の起こりについての話には至極納得したが、上記のセンセーショナルな部分によって霞んでしまったように思った。

(文Ⅱ・2年、男性、「どちらとも言えない」「どちらとも言えない」)

 

東大生になったことは、もちろん自分の努力の証でもあるけれど、この大学に入学した時に受からなかった人とその環境を忘れてはいけないというメッセージは、正しいと思うから。でも、上野さんは女性差別に特に重点を絞ってしまいましたが、教育格差、貧富の差、社会資本の再生産など、他に様々なファクターがあることを強調するべきだったと思います。そのため、もちろん間違ったことは言っていないし、日本社会が立ち向かわないといけない重要な問題だとは思いますが、感情論として批判されたりなど、今回のリアクションが起きたのではないかと思います。

(文Ⅰ・2年、女性、「評価する」「どちらとも言えない」)

 

問題点は本当に問題か

 

 これらの問題点が必ずしも重要ではないと考えた回答者もいる。

 

東大生ひと学年が一堂に会するのはおそらく入学式と卒業式くらいであろう。極めて貴重な機会である。
祝辞において最も大事なことはなんであろう?
確かに彼女の祝辞において、統計についての誤った解釈や男子学生に対する過度な一般化が含まれていたかもしれないが、それは対して重要ではない。なぜなら東大生には祝辞の内容を鵜呑みにしてそれを完全に信じてしまうような馬鹿はいないであろう(そう信じたい)からだ。
私は祝辞において最も大事なことは、話を聞いた人の人生にどれだけ良い影響を与えるか?であるとおもう。内容よりも、結果的にどれだけ聞く側に影響を与えられたかが大事だと思う。
結果として彼女の祝辞は多くの人の記憶に残り、多くの議論を呼び起こした。多くの東大生に性について考えさせ、意見発信させ、彼ら彼女らの知を深めさせた。これは明らかに彼ら彼女らの人生をより良いものに変えたであろう。たった十分ほどのスピーチでここまでの反響を呼んだのだから極めて評価に値する。
東大生ひと学年が一堂に会するのはおそらく入学式と卒業式くらいであろう。そんな貴重な機会を最大限に有効活用したと言える。
私は昨年の祝辞を全く覚えていないが一年後もこの祝辞は覚えている、そんな気がする。

(理Ⅰ・2年、男性、「たいへん評価する」「そう思う」)

 

新入生をやや力強い言葉まで用いてアジることで学問の世界に、言説の世界に引きずり込ませることは、そうした世界に迎え入れられるだけの人として、目の前の人を評価してる(祝っている)ことになると思う(最後の「ようこそ、東京大学へ。」ってフレーズもそういう文脈から出た言葉として読める)ため。

(文・3年、男性、「たいへん評価する」「たいへんそう思う」)

 東大生が祝辞を評価するか否かは、雑ぱくに捉えるならば、祝辞の力強いメッセージと、その主張を裏付ける論理や表現がはらむ問題の、どちらの側面に重きを置いて評価するかによって分かれているといえるだろう。多くの東大生は祝辞の両面を把握しており、評価軸の設定の違いがそのまま回答の相違として表れているにすぎないのではないか。

 

 とはいえ、紹介した記述が示す通り、祝辞を評価する側にもそうでない側にも、その理由にはバリエーションがある。自己の体験に重ねるもの、語られていないものに目を向けるもの、聞き手・読み手への影響まで含めて理解しようとするもの。ここに単純な分類を設けて説明するには、回答はあまりに多方面に及んでいる。

 

 ここで、図らずも東大生は、祝辞で述べられた「正解のない問いに満ちた世界」の一端に立ったといえよう。祝辞を目にした、耳にした多くの東大生が、ただそれを額面通りに受け取るのではなく、自分にしか持ち得ない視点から、独自の解釈を紡ごうとした。このムーブメントが、上野名誉教授が語った「これまで誰も見たことのない知」を生み出す萌芽になっていることは確かなようだ。

 

◇東大生以外の回答

 

女性の違和感を代弁

 

 東大生以外の回答で目立ったのは、自分の違和感が言語化されたと感じる女性の声だった。

 

大学でジェンダーを学ぶ機会があったが、こんなに心に腑に落ちる内容はとても共感が持てたため。家では女の子なんだから短大で良いよと言われて育ちました。(実際には4年大学に通いましたが)実際に社会人として働き始めて、女性だからある業務内容までは教えなくても良いと言われたり、女を利用して仕事してるんじゃないのか?など言われたこともありました。社会に出れば出るほど、女性が向上心を持って行動すればするほど、壁が高くやる気をなくしていました。そうゆう経験を、代弁していただいたような気持ちになりました。

(30代会社員、女性、「たいへん評価する」「たいへんそう思う」)

 

私自身が生きていく上での大きな気づきをいただいた為。
涙が出てとまりません。今まで差別を受けていることに蓋をしてきたのだなあ、と実感しました。そして強がって生きてきたのだと気づきを得ました。がんばりかたの方向が見えました。
今回の騒動により、祝辞内容を目にすることになったものの一人として、メッセージを受け取らせていただき感謝しています。(後略)

(40代公務員、女性、「評価する」「たいへんそう思う」)

 

 祝辞は新入生が対象だったが、学外の人にも気付きを与えていたようだ。

 

努力だけではなく、周りの環境によっていかされている。という、自分だけのことを考えるのではなく、周りのことを意識することになった。また、自分の力を自分が勝ち抜くためだけに使わないで。ということばが、中間管理職をしている自分にものすごく突き刺さり、今までの自分の仕方が恥ずかしくなった。
私の中で、こんな世の中に誰がした!と子どもや自分よりも若い人からいわれたら、それは、私達です。という、年齢だとおもっているので、これからは、自分の力な、使い方、いろんな人との関わりかたを見直し、行動したくなりました。

(30代公務員、女性、「たいへん評価する」「たいへんそう思う」)

 

東大卒業生です。「努力が報われると思えること自体が恵まれている」という指摘が、自分自身の環境に対して言われているようではっとしました。
「がんばりを自分のためだけに使わない」ことを意識して生きていこうと思いました。

(30代会社員、女性、「たいへん評価する」「たいへんそう思う」)

 

 「入学式にふさわしくない」という意見がある一方で、祝辞が「入学式」という場で行われたことを積極的に評価する意見も。

 

おそらく入学生には男女問わずピンとこなかったかもしれない。私が当時の事を思い出してもそうだと思うから。しかし世の中に出る前に伝えておくべき内容であり、いつが一番適切かと考えると合格を掴んで入学するあの場が一番ふさわしいと思う。私も入学時に聞いて知っておいたら、もっと将来の選択の前に考えることができたと思うし、さらに有意義に学生生活を過ごせたかもしれないと思う。

(40代エンジニア、女性、「たいへん評価する」「たいへんそう思う」)

 

入学式という「話を聞かなければいけない」「聞かされる」場で、それが何であれ、何かが心に残る内容だと思うから。多分、これから先の人生でふとした時に思い出す内容だと思うし、そうであって欲しい。卒業式ではなく、入学式っていうのがいいと思う。

(40代主婦、女性、「評価する」「たいへんそう思う」)

 

 ジェンダー問題に対し東大が真剣に取り組むことが表明されたと見る意見もある。

 

学校や企業で何か問題や不祥事があった場合、式典で誰かしらそのことに触れ、「改善していく」「二度と起こさない」(のでお前らも意識を共有し協力せよ)などと言うのはどこでも必ずやります。逆に誰も触れないと「問題意識が無い」との世間のバッシングは免れえません。たとえ新入生への祝辞という体裁でも、組織から社会へ向けたステートメントです。上野氏の祝辞の内容と上野氏を指名したことは素晴らしいですが、東大の問題に言及した(させた)こと自体は「普通」「当然」です。

(40代主婦、女性、「たいへん評価する」「たいへんそう思う」)

 

親世代がまだまだ男尊女卑な考え方な為に東大に女子学生が集まらない現実や、医学部差別が起こった現状を、若い世代の人々に是正していって欲しいし、当たり前を享受してる男子東大生に強く意識して欲しいから。
ただ、お祝いの席で言うべき事かとの批判も一理ある。
ただ、東大はジェンダー問題に真摯に取り組むと外部にアピールするには絶好の機会だったと思う。

(50代主婦、女性、「評価する」「そう思う」)

 

男子学生、不利な環境にある学生に配慮を

 

 他方、祝辞に批判的な意見には、根拠の恣意性への指摘に加え、祝福の要素に欠けるというもの、男性や不利な環境にある学生への視点を欠いたというものがあった。

 

東大入学式という注目される場で男女格差に触れること自体は悪くはないと思うのだが、もう少し祝辞の祝いの部分が強調されるべきだったのではないだろうか。

(10代学生(国公立大)、女性、「評価する」「どちらとも言えない」)

 

自分が生徒(所属高は進学校)に生育歴の優位さや無自覚について話をしたとき,つらそうにしているのはむしろ環境の壁を乗り越えて大学第一世代を目指している生徒だったりする。(後からそっと「実は私は」と話しに来てくれたり)だから今は,この中にもそうやって乗り越えた人もいるはずだけれど,という話をする。これらの経験からは,今回のスピーチはただただ優位な立場の学生に向けられており,実はその中にいる不利を乗り越えた生徒への眼差しが一切無いという点では残念。祝辞としては,この中には多様な人達がいるけれども,という前提に立つべきであったと考える。

(50代高校教員、男性、「評価する」「どちらとも言えない」)

 

男子生徒への配慮が著しく欠けている。
男子生徒が全員こうであるといった固定観念があるように見受けられた

(10代高校生、男性、「どちらとも言えない」「どちらとも言えない」)

 

 また、新入生に祝辞のメッセージが届いたかを疑問視する声もある。

 

冷や水をかけたようであるが、スタートにおける心がけとみればかような祝辞もあるのではないか。ただ、入学ばかりで浮かれているだろう入学者にはその思いは届かなかったのではなかろうか。意義深い話であったも届かないとね。

(60代大学教員、男性、「評価する」「どちらとも言えない」)

 

新入生よりも、東大の在校生に話した方が理解が得られる内容だったのでは。

(30代教員、女性、「評価する」「どちらとも言えない」)

 

 東大教員からは、東大の現状が反映されていないという指摘も。

 

東大女子学生に、サークル等での差別があることは、現場教員として何度も当事者から聞いている。それに触れた上野先生の意図は理解するが、何よりも冒頭の発言によって、東京大学の入試自体に(男女差別の)不正があるような主張に読める。これは由々しいことだと、東京教員(編集部注:原文ママ)の一人として大変残念に思う。

(50代大学教員、女性、「評価しない」「そう思わない」)

 

東大の男性社会の中で研究生活をしていても、そんな絵に描いたような女性差別者には現実にはほとんど出会わず、普通に女性を研究仲間として対等に受け入れてくれる人がほとんどなのに、その人達の存在をなかったことにして、今でも根強い差別があるように世間に誤解させるから。悪くない人たち(この場合は男性)のことを曲解して悪者扱いするような論調には賛同したくない。

(30代大学教員、女性、「評価しない」「そう思わない」)

 東大生以外の回答者の多くを占めたのは、すでに社会経験豊富な社会人。それゆえ、自己の経験に裏打ちされた記述が目立った。

 

 祝辞を支持する回答でよく見られたのが「学生のときには分からなかったが、今なら理解できる」という言葉。ジェンダーの問題にせよ、弱者の存在にせよ、社会で身をもって体験した今だからこそ、その重みがよく分かるということだと思われる。将来的に社会を動かすことになる学生に今のうちに知っておいてほしいという願いや、自分自身にとっても意義深いものだったという感想が多く寄せられた所以だろう。

 

 他方、実際の社会を知っているからこそ、それが祝辞に必ずしも正しく反映されていないことが非難されるという側面もある。男女や強者弱者という枠組みで語ることはある程度は避けられないにせよ、正確な認識や相応の配慮が必要であるという意見は少なくない。

 

 支持するか否かを問わず、学部入学式の祝辞に東大生以外からこれだけの反響があったこと自体、上野名誉教授が取り上げた事象が、潜在的に回答者一人一人にとって、ひいては日本全体にとって、切実な問題であったことを物語っているといえるだろう。

***

 このアンケートは、4月18日〜5月10日にかけ、東大生に限定せず全ての人を対象に実施した。Googleフォームで回答を受け付け、東京大学新聞の紙面及びオンライン、SNSで回答を呼び掛けた他、東大生向けにはLINEなどを通じて周知を図った。

 

 属性に関しては、全ての人に年齢(10歳区切り)、性別、学生か否かを聞き、学生でないと答えた人には職業も聞いた。学生と答えた人のうち、東大以外の学生には通学している学校の種類を、東大生(院生含む)には学年と所属を尋ねた。いずれも回答者自身の申告にのみ基づき、実際と異なる可能性がある。

 

2019年5月28日10:45【記事修正】「環境要因、ジェンダー問題の提起に支持集まる」の中で「〜〜批判へ移行しているという捉えた意見もあった。」となっていた誤植を修正しました。

 

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 4月12日の学部入学式で上野千鶴子名誉教授が述べた祝辞は、学内のジェンダー問題や大学で学ぶ心構えを説き、学内外で反響を呼んだ。東京大学新聞社は、この祝辞について東大内外の全ての人を対象にアンケート調査を行い、東大生(院生含む)603人を含む4921人から回答を得た。東大生以外では87.5%が祝辞を評価した一方、評価した東大生は61.7%にとどまり、祝辞への反応の差が浮き彫りになった。東大生の中でも、性別や学年、文系理系によって回答の傾向に相違が見られた。

(構成・山口岳大)

 

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2019年度入学式

 

 調査では、祝辞について①全文を聞いた、あるいは読んだか②内容をどの程度理解できたか③どの程度評価するか④学部入学式にふさわしい内容だったと思うか─の四つの質問を設け、①以外の三つに関しては回答の理由を聞いた。さらに、祝辞で取り上げられた東大の四つのジェンダー問題について、祝辞以前にどの程度認識していたかも聞いた。

 

◇東大生の回答傾向

 

女性の関心の高さ際立つ

 

 回答した東大生のうち、男性は67.5%、女性は29.9%。祝辞を「たいへん評価する」「評価する」と回答した割合は東大生全体では61.7%だった。性別では、女性で82.2%だったのに対し男性は53.1%にとどまり、女性の方が高く評価していることが示された。祝辞の理解についても、「よく理解できた」「理解できた」を合わせた割合では男女で大きな差はなかったが、「よく理解できた」に限ると、女性が約20ポイント男性を上回り、女性の方が祝辞の内容をより深く理解できている傾向が見られた。祝辞が学部入学式にふさわしい内容だったと思うかについても、男女で約30ポイントの差があった。ただし、女性でも「どちらとも言えない」が13.9%、ふさわしいと「思わない」「全く思わない」が13.3%で、ふさわしいかについては慎重な意見が見られた。

 

 祝辞で上野名誉教授が取り上げた学内の問題については、いずれも「よく認識していた」の割合は女性の方が高かった。特に「研究職・管理職における男女比率の偏り」は、「よく認識していた」「ある程度認識していた」を合わせた割合が、男性では83.3%だった一方、女性では92.8%で、女性の方が9.5ポイント高く、問題の認識に差があることが示唆された。

 

 学部1、2年生に限定し、文科と理科に分けての分析も行った。回答者のうち、文科生は6割に達した。前期教養課程に在籍する全学生中の文科生は4割であることから、理科生に比べ文科生の祝辞への関心が高かったことがうかがえる。さらに性別ごとに文理を比較すると、男女いずれでも、文科生の方が理科生より祝辞を評価した割合が高かった。祝辞を「たいへん評価する」「評価する」とした割合は、文科生の男性で62.4%、女性で80.5%だったが、理科生の男性で52.2%、女性で50.0%にとどまった。祝辞のふさわしさを尋ねた質問でも、同様の傾向が見られた。ただし、理科生の女性は回答者が12人しかおらず、文科生・理科生の女性を単純に比較することはできない。

 

新入生、上級生より高評価

 

 新入生は103人が回答。回答者の女性比率は26.2%で、新入生全体の女性比率18.1%を上回った。祝辞を「たいへん評価する」「評価する」と回答した新入生の割合は74.8%で、新入生を除く東大生の59.3%を15ポイント以上上回った(図1)。ただし、男性で72.4%、女性で81.5%と性別による意識差は新入生にも見られた。この意識差は、祝辞をふさわしいとした新入生の女性が81.5%に上ったのに対し、男性で52.6%だったことにも表れている。学内の問題については、「学生の男女比率の偏り」を除いて、新入生の認知度が新入生以外に比べ低く、今回の祝辞が、新入生が東大のジェンダー問題を知る契機になったといえる(図2)。四つの問題に共通して、「よく認識していた」「ある程度認識していた」を合わせた場合の男女間の差は大きくないが、「よく認識していた」に限ると女性が男性を大きく上回り、新入生の男女間で問題の認識に差があることも明らかになった。

 

 

 

◇東大生以外の回答傾向

 

男女いずれも東大生より高評価

 

 今回は東大生以外にも同様の調査を行い、4318件の回答を得た。うち67.3%が女性であり、特に女性の関心が高かったことが示唆された。世代別では、40代が32.3%で最も多く、30代、50代がそれぞれ22.3%、21.7%と続いた。

 

 祝辞を理解できたかについては、96.6%が「よく理解できた」「理解できた」と回答しており、東大生の92.2%とともに9割を超えた。ただし、「よく理解できた」は東大生以外で73.0%に達し、東大生の50.8%を大きく上回った。

 

 祝辞を「たいへん評価する」「評価する」と回答した割合は、東大生以外で87.5%と、東大生の61.7%に比べ高かった(図3)。性別ごとに東大生と東大生以外を比較すると、女性では東大生82.2%、東大生以外95.0%、男性では東大生53.1%、東大生以外70.9%と、いずれの場合も東大生以外が上回った。

 

 祝辞が入学式にふさわしい内容だったかについても、「大変そう思う」「そう思う」の割合が東大生で51.7%、東大生以外で82.8%と異なった。男女別でも東大生以外の方が東大生よりも男性、女性でそれぞれ22.0ポイント、18.0ポイント高かった。

 

 

20代、30代以降で評価高まる

 

 年齢別(以下、回答者が3人以下の9歳未満、80代、90代を除く)に見ると、祝辞を「たいへん評価する」「評価する」と回答した割合は10代の72.9%を除き、20代以降になるとどの世代も80%を超えた。祝辞がふさわしい内容だったかについても、「大変そう思う」「そう思う」の割合は、10代で60.6%、20代で74.1%だった他は、いずれの世代も軒並み8割を超えていた。男女別で見ると、男性は10代、20代では評価する割合がそれぞれ55.6%、60.3%なのに対し、30代以降は7割を超える。女性の場合は、10代で86.2%、20代以降は90%以上と、世代に関係なく祝辞を評価している傾向があった。

 

 上野名誉教授が取り上げた東大のジェンダー問題に関しては、全体的に東大生に比べ認知度が低く、特に「東大女子が入れないサークル」の問題は44.1%が「あまり認識していなかった」「全く認識していなかった」と回答。一方、「研究職・管理職における男女比率の偏り」については、認知度が東大生で86.2%、東大生以外で83.6%と、2.6ポイントの差にとどまった。

 

 この調査では、東大生の保護者か否かも聞いた。祝辞が入学式にふさわしい内容だったかに「大変そう思う」「そう思う」と答えた割合は、新入生の保護者で78.9%、東大生の保護者以外で84.9%だった。新入生以外の東大生の保護者では81.7%であり、新入生以外の保護者の方がふさわしいと考える傾向がわずかに強いことも明らかになった。

 

◇結果の分析から

 

 東大生については、男性に比べ女性の方が、全学生に占める回答者の割合が高く、祝辞を肯定的に捉える傾向が顕著だった。さらに、学内のジェンダー問題にもより強い関心を持っていることが示された。女性はこの問題においてマイノリティーの立場にあり、祝辞の問題提起をより切実に捉えていたことがうかがえる。

 

 新入生と学部2年生以上の学生で比較したところ、新入生の学内の問題への認識度が相対的に低かった。このことから、今回の祝辞は、新入生が東大内の問題を知る機会として大きな役割を担ったということができる。学生の男女比は容易に認識できるものの、東大の女性が入れないサークルは今回の祝辞によって初めて問題として認識された可能性がある他、2016年の集団強制わいせつ事件は今後風化する恐れもあった。さらに、研究職・管理職における男女比率の偏りは、他の問題と比べると学生には身近でなく、この問題については、新入生に限らず学生全体にとって新たな問題提起となったと考えられる。

 

 学部2年生以上の方が新入生に比べ祝辞への評価が低いことも明らかになった。ここで学部2年生以上が批判を向けたのは、祝辞の主張それ自体よりもむしろ、周辺的な事柄に対してだった。まず、主張を裏付ける根拠が必ずしも説得力を持っていなかった点が槍玉に挙げられることが多かった。祝辞冒頭で触れられた、理Ⅲにおける女子学生の合格率に対する男子学生の合格率1.03倍は統計的に意味を持たないのではないか。他の大学との合コンで東大の男子学生がもてるというのは必ずしも正しくないのではないか。祝辞の趣旨を認めつつも、こうした議論の弱さを指摘する声が多かった。さらに、内容の正否や意義とは別に、それが入学生が祝われるべき「祝辞」という枠組みで捉えられる限りでは評価できない、という意見も多数あった。

 

 東大生以外は、全体的に東大生よりも祝辞を肯定的に捉える傾向があった。東大生の女性も祝辞を評価しているが、東大生以外の女性はさらに高く評価しており、男性の場合も、3人に1人が祝辞を評価していない東大生の男性と比較すると、かなり高い評価を下している。この違いは、東大生以外の中で多数を占めた社会人の方が、社会での経験が豊富であり、問題がいかに深刻であるかを目の当たりにしてきたことに起因していると考えられる。これは、東大生を除いた集団の中で、10代、20代の若い世代よりそれ以上の世代の方が祝辞を評価している割合が高いことからも裏付けられる。

 このアンケートは、4月18日〜5月10日にかけ、東大生に限定せず全ての人を対象に実施した。Googleフォームで回答を受け付け、東京大学新聞の紙面及びオンライン、SNSで回答を呼び掛けた他、東大生向けにはLINEなどを通じて周知を図った。

 

 属性に関しては、全ての人に年齢(10歳区切り)、性別、学生か否かを聞き、学生でないと答えた人には職業も聞いた。学生と答えた人のうち、東大以外の学生には通学している学校の種類を、東大生(院生含む)には学年と所属を尋ねた。いずれも回答者自身の申告にのみ基づき、実際と異なる可能性がある。

 

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 東京大学新聞社は、2019年度学部入学式で上野千鶴子名誉教授が述べた祝辞について、東大内外の全ての人を対象にアンケート調査を行い、東大生(院生含む)603人を含む4921人から回答を得た。この記事では、アンケートの末尾に設けられた自由記述欄に寄せられた祝辞への反応を多角的な視点からまとめ、前後編の2回に分けて紹介する。前編ではジェンダー問題についての意見を取り上げる。

(構成・武井風花)

 

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東大入学式上野祝辞 依頼した東大執行部の問題意識とは

 

2019年度入学式

 

※凡例

・基本的に原文を尊重し、表記統一は施していない。

・各意見の末尾には、年齢、性別、所属・職業を付記している。

 

女性の実体験の想起促す

 

 アンケートの回答者は、女性が62.7%を占め、またそのうち特に中高年の女性は祝辞に好意的な反応を見せた人が多かった。その背景には、彼女らが日頃感じている女性に対する目に見えない圧力と、それによって苦しんだ実体験が存在する。回答者ごとに多種多様なエピソードがあり、全ての内容を紹介することはできないが、以下に一部を紹介する。

 

 二階の保護者席にいました。後半から何故だかじ〜んときてしまいました。ここで泣くのはおかしいかな、と必死に涙を堪えていたところ、あちらこちらから鼻をすするすすり泣きが聞こえられ、こういう反応は私だけではなかったのだ、と思いました。保護者の知り合いは多かったので、皆さんそのような反応でした。今は仕事を辞めていますが、ここに至るまでに共感することはたくさんありました。(中略)上野さんだけでなく上野さんを呼んだ東京大学にも新しい時代を予感させるとても良い選択でした。私は卒業生ではありませんが、大学は社会学科で当時三十代の上野千鶴子さんを大変頼もしく思っていたので、今回は本当に直接お話を伺わせてもらい本当によかったです。

(50代、女性、主婦、新入生の保護者)

 

すばらしい祝辞でした。私は1980年代に東大を卒業したが、その時は一学年の女子は1割に満たなかった。初めて女子の新入生が200名を超えたとき男の先生たちの中に「東大が女子化する!」「学問の力強さが失われる」「受験秀才ばかりになり、スケールの大きい研究をする者が排除される」と大騒ぎされている方もあった。そのようなご自分の言動を目の前にいる女子がどのように受け止めているかという想像力も働かないのか、とがく然とした。(中略)そのころこのような祝辞を新入生として聞けたらどんなによかったかと残念で、今の学生がうらやましい。しかしその一方で、上野氏に祝辞をしていただき、過去の汚点も隠さず前進する契機とする決断をした東京大学が、自浄能力、向上の精神、学ぶ姿勢を自ら示したことは、卒業生として、特に女子の卒業生として誇りに思い、また嬉しく思う。

(50代、女性、教員)

 

東大だけでなく他大学でも

 

 今回の祝辞は東大生に向けたメッセージだったが、他大学でも同様の男女差別があるようだ。

 

 大学において女性教員は厳しい立場に置かれているという、女性の大学教授からの意見。

 

私の在籍する大学は男性社会です。女は要らないと暗黙の了解で、女性教員を増やすは単なるスローガンでしかありません。数々の嫌がらせの中で生き残っています。しかし次の世代に引き継ぐために踏ん張っています。上野さんの祝辞、昨年のロバート氏の祝辞に続き学生と読んで話し合いたいと考えています。

(60代、女性、大学教授)

 

 東大女子が入れないサークルをはじめとする大学内の男女差別や、女性にとって学力は印象向上につながらないことについて、他大学にもそのような文化が存在するという声も寄せられた。以下に具体的な大学名を出している意見を3件紹介する。

 

(前略)私は東工大女子で、東大女子とある程度同じような境遇なところがある。学内では入れないサークルはあったし、社会に出てから、男女平等ではないことを知った。知らなかったから、あたふたして苦労し、生きづらさも感じた。実際に、鬱になった子や、自殺をしてしまった友人もいる。力になれなかったことを悔やんでいる。
早めに問題を認識するということは、そのための心の準備ができるし新入生にとってもいい謝辞であったと思う。

(30代、女性、IT企業勤務)

 

東大だけでなく京大も似たような問題を孕んでいた。もっと沢山の人にこの事実を知ってもらいたい。これに尽きます。

(30代、女性、会社員)

 

私の所属している早稲田大学でも「ワセ女(早大女子)お断り」というサークルが存在するらしく、先輩で実際にそのようなサークルから加入を断られた経験をした人もいます。これが、決してまっとうなことではないこと、そして私は、同じ早大生でも男子と女子とに向けられるまなざしが違うことを上野さんの祝辞によって気づくことができました。今回の祝辞はもっといろんな人に知ってもらいたい内容ばかりでした。

(10代、男性、私立大学学生)

 

地方の意識差が浮き彫りに

 

 祝辞が大きな関心を集めたとはいえ、広がりには地域によって限界があるのではないかという意見もいくつか寄せられた。性差に対する意識が相対的に弱い地方に住んでいる人にとって、この祝辞は一つの希望であった一方、周囲の環境の旧態依然とした現実に改めて気付かされる契機にもなったようだ。

 

 祝辞をSNSでシェアしたところ、地元の男性から反発があったという記述。

 

上野先生の祝辞をFacebookでシェアし、共感できると発信した。いいね!は多くはなかった。私は人口6千人以下の東北の小さな町に住んでいる。上野先生の祝辞をシェアすることさえ、勇気がいった。想定どおり住民の男性から、上野先生の祝辞は上から目線、東大に入ることが偉いのか…という要旨のコメントが。
このようなコメントが増えていくのは、本意ではなかったし、顔の見える社会で生活していくには、プラスに働くとは思えなかったので、シェアを削除しました。祝辞に賛同することさえ、言えない男尊女卑が日本の現実です。

(50代、女性、地方公務員)

 

 鹿児島県在住の学生からは、地元の問題意識の低さを指摘する声が寄せられた。

 

(前略)私は鹿児島に住んでおり、ジェンダー教育が最も進んでいない県と言っても過言ではありません。そのため、そのような性差別的な出来事は少々目にしてきました。いまだに戦前のようなパラダイムや男尊女卑が存在します。しかし、それを受け入れている、もしくは差別と思ってすらいない女性も存在することも否めません。そのため、環境を変えるよりも、まず一人一人が声を上げるように気づかせることこそが大事ではないかと考えます。

(20代、男性、私立大学学生)

 

海外の視点で日本を相対化

 

 海外と日本を比較する意見も数件寄せられた。はじめに、英国と日本を比較している記述を紹介する。

 

私はイギリスの大学に在学しており、大学に登録されるサークル・団体はすべて加入者に対する宗教の差別、性的嗜好の差別(性別の差別だけでなくLGBTQも含む)、人種の差別を禁止するということが宣言されている環境にいる。私の大学はそれだけでなく、それらの行為が発覚した場合、団体・サークル活動取り消しをかしており、今更上野氏のスピーチを通してそのような秩序が当たり前にあったものではなく、多国籍なイギリスの大学らしい厳しい態度で学内の風紀を保ってくれていたのだと気づいた。
(中略)今回の上野氏の祝辞は日本社会から遠ざかった私にとって逆カルチャーショックだった。(中略)自分の出身国の学術をリードする最難関のアカデミア(東大)がそのような差別溢れる状況であるという現実はあまり聞きたくなかった。まして、今その雰囲気を保存しているのはおそらく私と同世代の日本の学生たちで近い存在。帰国子女がよく鬱陶しがられる“ イギリスでは〜” などという、海外の環境を武器に日本の大学を批判するような文脈をできればいいたくないのだが、どうしても人権や他者へのリスペクトといった大切なことに疎く、無頓着で、そのような環境の被害を受けている人に無関心な印象を日本社会に対してぬぐいきれない。
上野氏のスピーチは少なくともこうした改善するべきポイントに東大祝辞という場でライトを当てたものとして支持している。

(20代、女性、海外大学学生)

 

 米国と日本を比較し、日本では進学に際し女子学生が周囲に足を引っ張られることがあるのに対し、米国では素直に応援してくれるという意見も。

 

この問題への内外の反応を通じて、東大女子学生だった30年前と比べてあまり状況が改善していないことを痛感しました。
現在米国で大学院生ですが、こちらでは女子だろうがおばさんだろうが、上司や同僚、恋人や夫などが第一に応援してくれますが、日本の家族は進学について引けていました。もっと女子にも、年配者にも、その他マイノリティにも、広く高等教育への就学の機会、知的労働への就労の機会が、日本でも開かれることを願ってやみません。それこそが21世紀の日本社会が停滞から脱出し先進国の一員らしく振る舞い、豊かになる鍵だと思います。

(50代、女性、ワシントン大学大学院学生)

 

 東大の女性教員が少ないことに対して海外の研究者から質問を受けたという研究者からの意見。

 

ちょうど先月、海外に行った折に、複数の研究者から「なぜ東大にはあんなに女性教員が少ないのか」という質問を受けました。その場にいる複数の研究者が、そのように認識しているようであり、また過去にも何度か同様の質問を、海外で受けたことがあります。その直後であったこともあり、また、私自身が東大で非常勤ながら勤務した経験を持っているため、上野さんのご意見に深く同意せざるを得ませんでした。(後略)

(50代、女性、研究者)

 

 明らかな性差別にも「これが日本の文化だから(This is Japanese culture)」で片付けてしまう日本のジェンダー環境に疑問を持つ、外国からの留学生の意見もあった。

 

素晴らしいスピーチに感謝します。今こそ、日本社会で女性が直面している差別とジェンダー差別の問題により公然と取り組むときです。私は研究のため日本に住んでいる外国人ですが、日本に滞在している間、上野教授(編集部注:原文ママ)が述べた問題全てに触れました。さらに驚くべきは、日本人(女性を含む)が「これが日本だから」や「これが日本の文化だから」といった体制順応的な発言をし、これらの問題を無視していることです。男性から「あなたたちは、女性だからこそ奨学金がもらえるのだ。政府は自動承認によってパーセンテージを増やそうとしている」という話を聞くのは、うんざりです。ストーカーの話を耳にするのは、うんざりです。男性が普通のことだと考えているからといってセクハラを受けるのは、うんざりです。「研究をやめろ、さもなければ結婚できないぞ」「男は強い女が好きじゃないから、強くあるべきじゃない」などと言われるのは、うんざりです。私はもう、うんざりです。
日本に住んで4年になりますが、私が本来の私のままでいることができ、これらの問題を公然と論じることができるまでは、日本は私のふるさとには決してならないでしょう。(後略)

(20代、性別回答しない、工学系研究科・博士1年)

※英語で書かれた原文を東京大学新聞社が翻訳

 

これからどうするべきか

 

 さまざまな論点からの意見を紹介してきたが、それでは実際に東大の男女差別を改善するためには具体的にどうするべきか。

 

 東大が女子学生を増やしたいなら、例えば「東大女子が入れないサークル」について、大学側が学生に積極的に環境改善を促す必要があるのではないかとする意見。

 

学生自治の観点、多様性の観点から女子学生が参加できないサークルが世の中に存在しても良いとは思う。しかしながら、それらの団体に差異をつけず、学内施設(コート、体育館等)を使用させていたこと、そのことについて、祝辞、セミナー、シンポジウム、提言などで学生に気付きを促す活動を積極的に行ってこなかったこと、上野氏の祝辞への反響により、学生はもとより、大学側にも今後は積極的に取り組むなどして欲しい。少なくてもそんなサークルがある時点で、女子学生が東大を進学の選択肢から外す可能性は高いと思われる。

(50代、女性、不動産業)

 

 大学に加えて学生にもできることがあるのではないかとする意見。

 

学生であれ教職員であれ問題意識を持ったのであれば、まず身近なところからアクションを起こしていくべきだと思う。例えば自分の所属するサークルの在り方を少し見直してみるなど。加えて、学生自治会や大学組織が音頭を取って進めていく面も必要だろうと思う。

(20代、男性、国家公務員)

 

 「男女差別」というと男性側に問題があると考えがちだが、女性自身の行動にも問題があるのではないかという意見もあった。

 

 大学名を言えないのは、女性もどこかで男性に守ってほしいと思っているからではないかという意見。

 

合コンで大学名を言えないと言う女性は実際にいるが、その女性にも守られる立場でありたいという思惑があってのことだと思う。私も有名私大卒で周りにも同様の友人がいたが、対等でいたいという思いがあり、合コンなど出会いの場でも大学名を聞かれれば答えたし、パートナーを探す上でも、対等に支えあえる人を選んだ。女性側も古い慣習にとらわれずに振る舞うべきだと思う。

(30代、女性、営業職)

 

 女性自身も、女性の特権を利用して都合良く逃げるのはやめるべきだという意見。

 

(前略)でも自分自身、どんな不利益を被っても、社会で男性と同じように仕事をしてきました。ただその中で足を引くのは常に女性であったことも忘れてはいけないと思います。
上野さんの祝辞は素晴らしいし、このような取組が行われることは今後もぜひ推進していただきたいです。
一方で、女性も同じような理解、認識を持たなくてはなりません。
都合のよい時にかわいく、都合よく逃げてはいけません。逃げ道を確保しているといっても過言ではありません。
パワハラ、セクハラ、ブラック企業から逃げるな、ということとは全く違います。
女性の特権を利用して、都合よく逃げることを女性自身が止めなければなりません。
今回の上野さんの祝辞で唯一残念なことはその点です。
論点がぼけるからあえてはっきりおっしゃったのだろうと感じますが、ぜひ女性としての認識も改めるべきではないかと思っています。(後略)

(40代、女性、会社員)

 

LGBTQにも目を向けて

 

 また、男女差別のみが問題に挙げられていることに違和感を持つという記述も寄せられた。

 

 上野名誉教授はジェンダー二元論と異性愛を前提とし、同一化しない学生(LGBTQ)を切り捨てているのではないか、聞き手を「正常な国民」として想定し、それをシンボリックな場で話すことに上野名誉教授のナショナリズムを感じる、という学生からの意見を紹介する。

 

内容にはほとんどすべてに賛同します。他方で、次の三点がきになりました。1:上野は男女というジェンダー二元論と異性愛を前提化しており、それに同一化しない、できない新入生、学生を傷つけた可能性はないのか。2:東京大学というある種日本においてシンボリックな場でジェンダー二元論と異性愛を前提化した話をする点に、彼女は聞き手を「正常な国民」として想定しているように思えてならない。その点で彼女の研究上の傾向であるナショナリズムを感じる。3:こうした話をしたことには意味があると信じている一方、まだこんなことを話す必要がある、という点に社会における不寛容がある時期からまったく改善されていないことを突きつけられたような気もしてつらい。実際、上野の話を不快だという男性の院生と話すと心が死ぬ。

(20代、性別回答しない、総合文化研究科・博士3年)

 上野名誉教授の祝辞は、東大内の問題以外に、社会一般で女性が置かれている不利な立場をも議論の対象として明るみに出した。ある人は祝辞を機に自身の体験を想起し、ある人は東大以外の大学・環境にも同様の問題があることに思い至り、またある人は東大・日本と海外・地方との環境を比較・検討した。その思考の幅の広がりから見ても、今回の上野名誉教授の祝辞は多くの人の関心を引き、思考を促す内容だったことは間違いない。

 

 私たちは、無意識に男女差別的な考えをしていたり、抑圧されていたりすることがあると自覚すべきだ。そして、男女だけでなくLGBTQにも目を向ける必要があることも忘れてはならない。このように、一人一人が日本のジェンダー環境について問題意識を持つことが環境を変える第一歩になるだろう。

 

 後編では、祝辞の後半で触れられた弱者と強者についての意見を中心に紹介する。

 

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 東京大学新聞社は、2019年度学部入学式で上野千鶴子名誉教授が述べた祝辞について、東大内外の全ての人を対象にアンケート調査を行い、東大生(院生含む)603人を含む4921人から回答を得た。この記事では、アンケートの末尾に設けられた自由記述欄に寄せられた祝辞への反応を多角的な視点からまとめ、前後編の2回に分けて紹介する。後編では、強者と弱者の問題についての意見を取り上げる。

(構成・武井風花)

 

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2019年度入学式

 

※凡例

・基本的に原文を尊重し、表記統一は施していない。

・各意見の末尾には、年齢、性別、所属・職業を付記している。

 

祝辞の主題はジェンダー問題か?

 

 今回の祝辞ではジェンダー問題に意識が向きがちだが、祝辞の主題は別の部分にあるのではないかという意見が寄せられた。上野名誉教授が本当は新入生に何を伝えたかったのか。祝辞の主題の在りかはどこにあったのかについての意見を、大まかに2種類に分けて紹介する。

 

東大生よ、「市民的」たれ

 

 東大新入生には、裕福な家庭の出身者や、首都圏の中高一貫校出身者など、比較的偏った世界で育った人が多い。そのため、社会で実際に起きている問題や、見えないバイアス・不公平について知る機会が限られている可能性が高い。そのような新入生に、広く社会状況を把握できる「市民的」な感覚を身に付けてほしいということが祝辞の主題だったのではないか、という意見2件を紹介する。

 

男女の問題だけでなく、世の中には様々なバイアスがあることを、この祝辞から感じ取ってほしいと思いました。この議論がジェンダーの話だけに留められてしまわないことを願います。

(40代、女性、会社員)

 

(前略)上野教授は祝辞の中で「ジェンダー問題」について触れ、それがニュースでは話題になっていたと記憶していますが、読み返して改めて思うのは「社会には不公正なことが満ちあふれている」「外に出て価値観を広げ、日本社会を良くしていこう」というメッセージが読み終えた私の心に大きく突き刺さっている、ということです。ジェンダー問題だけでなく、メディアのジャーナリズムが委縮している問題など、日本の様々な問題に取り組み、声を挙げ、行動していくことの大切さを気付かされました。

(30代、男性、ニューヨーク大学経営大学院学生)

 

 人は他人から評価されなくても存在するだけで皆価値があることに気付き、他者を尊重し、良心を持つよう訴えたものだという意見。

 

東大生を含むエリート男性は,自らが価値ある存在であることを証明しようとして、社会の中で成功するための努力を惜しまないが,他者を価値の有る無しでジャッジし,時には他者貶めるように思う.上野先生の祝辞が彼らに伝えたかったのは,何人も他人から評価されなくても、存在しているだけで十分に価値があることにエリート男性達気づき(編集部注:原文ママ),他者への尊敬と共感を訴えたものだと思う.

(40代、女性、歯科医師)

 

上野氏の研究分野から女性問題から導入するのは妥当なことだと思う。但し本質的には理由は様々だが、努力と能力が必ずしも成功を導く要因となるわけではないことを認識させたかったものだと思う。また成功の定義に関しても個人主義且つ足の引っ張り合いになりがちで冷めた世の中における良心を植え付けようという意図は読み取れた。(後略)

(40代、男性、会社員)

 

東大生よ、「エリート」たれ

 

 新入生への社会からの高い期待を示し、困難な課題を解決し社会的使命を果たすように訴えたもの、つまり「エリート」としての自覚を促しているのではないか、という意見もいくつか寄せられた。

 

3000人の新入生全てに最大公約数的に受け入れられる祝辞では、あまり意味も印象もないものになってしまいがち。上野先生の祝辞は、全員に受け入れられるものではないかもしれないが、ある特定の分野を例に、社会からの高い期待をぶつけ、学生の問題意識やモチベーションにつなげようとするもの。他のどの分野でも同じように課題と困難があり、それに対する高い期待、使命を課せられていることは東大の新入生ならわかるはず。(後略)

(30代、男性、会社員)

 

 「変化の時代」「時代の変わり目」にある現在、答えのない問いに踏み出していく新入生に、新しい問題に対処するパイオニア精神を持つように促すことが、祝辞の主題だったのではないか、という新入生からの意見。

 

世間での評価が「フェミニスト」に限定されていることに納得がいかない。(中略)フェミニズムに関連する話は前半のみにすぎない。むしろ主題は後半にあり、「ようこそ東大へ」は、「先輩」としての立場から、大学での学びを始める新入生に語りかけたのであろう。五神総長の式辞とも被るが、答えのない問題に踏み出していくパイオニア精神がメッセージなのではなかったのではないかと思う。(中略)
昭和から平成への転換期に男女差別が社会問題として広く議論される様になり、男女雇用機会均等法が制定されて、フェミニズム運動上の大きな変革が起こっていた。ちょうどその真っ只中にいたのが上野氏だった。上野氏は、2018年学部入試の世界史第一問(編集部注:19〜20世紀の男性中心の社会で活躍した女性の活動、女性参政権獲得の歩み、女性解放運動について問われた)で問われるような時代に活躍した、過去の、歴史上の人間である。その経験を基に、平成から令和へ、Society5.0(編集部注:内閣府が提唱している、仮想・現実空間の融合により経済発展と社会課題の解決を目指す未来社会の姿)の時代への転換期を迎える新入生に、何かを伝えてくれると期待して、東大は上野氏を招聘したのではないだろうか。入学式全体が「変化の時代」をどう生きるかが大きなテーマだった様子であったし、もしそうであったら、その目論見は大当たりであったことだろう。
上野氏の話を限定的に見たらもったいない。東大の、社会の女性差別は問題である。しかし、それ以上に深い意図があったのではないかと思い、ほかの人の反応やメディアの報道を終始歯がゆく思ってみていました。(後略)

(10代、男性、文Ⅰ・1年)

 

「強者である東大生」と「そうでない人々」の図式

 

 新入生からは、社会的には「強者」と捉えられる東大生となったからには「市民的エリート」として社会の期待に応えよう、と決意を新たにする声も寄せられた。

 

(前略)自分個人の話になってしまうが、私がはっきり他人に「東大です」と言えないのは、自分に自信が持てないからなのだが、先生の祝辞を聞いて、それではいけないのだと思った。私は、東大に受かったのは、本当に自分の力や努力というより、高校の先生方を始めとした方々のおかげだと、「受かった」というより「受からせてもらった/引っ張り上げてもらった」だと思っているが、だからといって「東大生」であることの責任を持たないのは違うと、それは逃げであると、思わされた。「東大生」という銘柄に対して世間が抱くようなイメージや期待に、自分が沿えていない、見合わないと思うならば、「東大と言っても、本当は大したことはないのに。特別視しないでくれ」と思うのではなくて、その期待に見合うような、あるいは自分が胸をはれるような、人間になる努力をここから積むべきなのだと思った。自信がなくても、実際たいしたものではなくても、その肩書きを得た時点で、その期待に内実を合わせる努力をする義務があるのだと思った。東大の言う「市民エリート」とはそのような意味であり、学生はノブレス・オブリージュ(編集部注:高い身分の者には、それに応じた責任と義務があるという考え方)の類を負っているのだということに気付いた。
先生の祝辞を聞けて、入学式に行った意味があったと思った。

(10代、女性、文Ⅲ・1年)

 

 一方、自身がマイノリティーであると感じている人からは、そのような立場にある人々に東大生が目を向けることを期待する声もあった。

 

私は昨年、難病者となりました。仕事へ復帰した際、自分にとっては「精一杯」で「頑張っていること」さえも、見た目も以前と変わらないためか周囲にとっては「怠けている」「以前はもっとやっていた」「早くしてほしい」と捉えられ、投げ掛けられるのはひどい言葉であり「頑張っている」と捉えてもらえませんでした。
教育者でありながらのこの職員の態度に失望し、私も声をあげようと思っていた時にこの祝辞をききました。
頑張っても 報われない わかってもらえない人の一人であり、過度な頑張りをできない(とめられている)者の一人である私からすると、最難関と言われる大学で学び、世に出ていかれる方に是非とも目を向けて頂きたい部分でした。
学生たちだけではなく、私のようなマイノリティーの者、日頃無意識にその差別を当然としている大人たちにまで考え直す良い機会を与えていただきました。本当にありがとうございました。

(30代、女性、小学校教員)

 

東大(男子)=強者という図式に批判も

 

 しかし、「強者である東大生」と「そうでない人々」の図式は、常に成立するものなのだろうか。これについて、何件かの疑問の声が寄せられた。

 

恵まれない人だとか弱者だとかの上から目線含め東大らしいと思った。
東大出身を随分と買い被っているが、東大出の人のその後の不自由を世話してるのは東大以外の人かもしれないのに、とは、思いました。

(30代、性別回答せず、私立大学学生)

 

という東大出身者、東大生が「強者」という前提で話していることに対する批判。

 

 東大生は弱者である場合もあるのではないかという意見もいくつか寄せられた。

 

(前略)ただノブレスオブリージェ的な内容の部分で、東大生は不幸ではない?弱者ではない?という前提で話されていたのは、やや違和感があった。いまなんらかの苦しみを抱えて、自分のことで手一杯な東大生もきっといると思ったので。

(50代、女性、会社員)

 

東大生をアイコンのように扱って欲しくない。一人一人が繊細で未熟な学徒であることを認識した上で、世間ではなく彼らに向けた言葉をかけて欲しかった。アジテーションは対立を招きやすい。それよりも対話を。地方出身で親しい人がいない、障害や病気を持っている(心身どちらも)、経済的に困窮している、など、希望より不安を抱いて入学している新入生のことも考え欲しい。また、世間的には恵まれていると目されていても、学力のみを過剰に求められ苦しんできた人もいるのでは?かれ彼らに、あの祝辞は響いただろうか。「いや、それでも東大生となったからには甘えるな」というのはマッチョ過ぎるのでは?

(50代、女性、コールセンターオペレーター、東大生(新入生以外)の保護者)

 

誰にでもある弱さを気付かせたのでは

 

 これに対して、祝辞では必ずしも「東大生=強者」とは捉えていないのではないか。一見強者に見えても、実際は誰の中にも弱さがあることを認め、行動するべきだということを伝えたかったのではないか、という意見もあった。

 

児童精神科医をしています。
虐待や養育の困難、貧困など、力の歪みを目の当たりにする現場です。
今回の祝辞では、弱さ、しかも救うべき他者ではなく、自身のなかにある弱さに注目したメッセージに感銘を受けました。Malcolm GladwellのDavid and Goliath(編集部注:不利な立場をいかに捉えるべきかを主題としたノンフィクション。表題は旧約聖書『サムエル記』中の若い羊飼いダビデが屈強の戦士ゴリアテを倒すという逸話に基づく)を想起しました。

(30代、女性、医師)

 

(前略)フェミニズムは女性が男性になりたいのではなく、(弱い)あるがままの存在を認めてもらいたい、という主張なのだ、という指摘は今日的です。小さいころから翼をもごうとする周囲と闘ってきた私自身にとっては、前半部分も共感するところは多かったですが、焦点はフェミニズムよりも、後半部分の、弱者を切り捨てないこと、また強がっているエリートたちも実は結構弱みがあるので、そのことを認めて生きていこう、という呼びかけのほうです。本当にいい話だと思いました。

(50代、女性、研究者)

 後編となるこの記事では、前編のジェンダー問題とは異なる視点から、弱者と強者の関係についてのコメントを紹介した。ジェンダー問題に目を向けがちだが、本当の主題は、「強者」たる東大生は「市民的エリート」たれ、ということなのではないか。そして、そもそも「強者」「弱者」とは何なのか、強者に見える人でも本当は弱さを持っているのではないかなど、前編に引き続きこちらも幅広い議論が展開された。

 

 今回のアンケートでは、回答が必須ではないにもかかわらず自由記述にも長文の内容が多く寄せられた。記事をまとめるに当たり、基本的に全回答に目を通したが、一つ一つの内容の濃さに驚かされた。記者自身、祝辞を最初に読んだ時はジェンダー問題に関係する部分に気を取られていたが、主題は別にあるのではないかという意見にはハッとさせられたし、誰の心の中にもある弱さを指摘したのではないかという意見は心に刺さった。個人としても、ここまで多くの人の考えに触れ、祝辞に対して当初よりも多角的な視点を知ることができたのは貴重な経験だった。本記事が記者だけでなく読者にとっても祝辞に関する論点を整理する材料になれば幸いである。

 

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東大入学式上野祝辞 依頼した東大執行部の問題意識とは

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 インターネット上でも大きな話題を呼んだ2019年度学部入学式での上野千鶴子名誉教授による祝辞。ジェンダー問題などに言及した祝辞は、祝辞を依頼した東大本部の危機感の表れと見る向きも多い。果たして上野名誉教授の祝辞は、東大の執行部からはどのように捉えられているのか。東大で男女共同参画を担当する理事・副学長と、階層論研究の専門家である女性の理事・副学長に取材した。

 

(取材・高橋祐貴)

 

松木則夫(まつき・のりお)理事・副学長

 

 男女共同参画室長で東大の男女不平等の改善に取り組む松木則夫理事・副学長は「そもそも祝辞は個人の著作物に当たるため、内容に東大が口を出すことはない」と語る。今回も上野名誉教授の求めで学生の男女比などの数値の確認のみを行い、他の部分には一切介入しなかった。当然、上野名誉教授に依頼を決めた時点で「ジェンダー問題に触れるだろう」とは意識していたが、実際に触れてほしいとは伝えていないという。

 

 上野名誉教授が東大に対して批判的な内容を述べることは十分予想できたが「現状男女比が偏っているのは事実なため、個人的には批判を甘んじて受け入れるつもりでした。結果として、東大におけるダイバーシティ推進へ力強いエールをいただきました」。メディアの報道も意識していたが、これほどまでの反響があるとは思っていなかったという。祝辞が世間の耳目を集めたことで、東大が女子学生を増やすために行っている施策などにも注目が集まり、議論が進展することを期待している。

 

白波瀬佐和子(しらはせ・さわこ)教授(人文社会系研究科)

 

 一方「当初から祝辞への反響を狙っていたわけではない」と語るのは、女性で唯一理事・副学長両方を務める白波瀬佐和子教授(人文社会系研究科)。祝辞を依頼するにあたって、学術的・社会的に多大な貢献がある人物であることが重要なポイントで、上野名誉教授についても日本におけるジェンダー、ケアの研究に大きな功績を残した社会学者である点が大切だと話す。「ジェンダー問題というテーマがあって、人選が進んだという流れではないと私は理解しています」

 

 その上で祝辞の重要なメッセージは後半にあるという。入学式に参加する新入生は多様で「自分が強者だ・特別だ」と思っている人ばかりではないだろう。ただ「階層論研究の専門家として『強者の立場にいること』への自覚は、東大生には持ってもらいたい」。

 

 東大生の生活圏は意外と限定的。小中高大と進学するにつれ、周囲の同級生の保護者の職業が限定的になっていないか東大生に尋ねると、大半の学生は「確かにそうかもしれない」と納得するという。「東大生は自らが思う以上に恵まれた、誰もが簡単に手に入れられるわけではない環境に育ったことを忘れないでほしい。難関をくぐり抜けて高いポテンシャルを持って入学したからこそ、世の中の動きに敏感になり積極的に外の世界に飛び出してはどうか」。上野名誉教授からの祝辞の意味を謙虚に受け止め、自分と違う環境に置かれた人の立場を想像できる他者感覚を持つ学生になってほしいと願う。

 

 上野名誉教授が祝辞の中で触れた東大のジェンダー問題については、松木理事・副学長も白波瀬教授も「対策の効果はまだ見えず道半ば」だとうなずく。特に女子学生の比率向上については「女子学生への住まい支援、女子学生による母校訪問、女子中高生向けのイベントなどさまざまな施策を打っているが一向に結果につながらない。むしろいいアイデアがあれば東大新聞の読者に教えてもらいたいくらいだ」と松木理事・副学長。今後は在学生の母校以外にも東大の宣伝ポスターを送付する、女性卒業生の動向をより広範に把握してロールモデルの発信に努めるなどの施策を打とうかと議論しているという。

 

 五神真総長が役員層の女性比率30%を目指す「30%クラブ」に大学のトップとしていち早く加盟したのも、現状への危機感の表れだ。組織の上層部だけでなく、学生、研究者、職員等のダイバーシティの向上に向けて、改革の道のりはまだ長い。

 

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東大入学式2019・上野祝辞アンケート分析④ 自由記述紹介後編(強者と弱者編)

 

※東大の女子学生比率向上のためのいいアイデアがある方は、下記の意見送信フォームからぜひご提案いただけると幸いです。

【セミが見た高知①】高知県知事、駒場に来たる!!

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筆者。小学校5年のころから「セミ」の研究に取り組み、今年で11年目だ。

 

なんで高知やねん!

 

 高知と聞いて、何を思い浮かべるだろうか?「坂本龍馬、四万十川…そういえば『県庁おもてなし課』の舞台って高知だったけ?」数カ月前、僕の中での高知へのイメージといえばそれくらいのものだった。

 

 この連載は『セミが見た高知』と題する以上、高知をテーマにしたものだが、高知に行ったことも、高知のことをほとんど知りもしなかった僕がなぜ高知について書いているのか?それは、偶然ある講演会のチラシを目にしたことがきっかけだ。

 

「高知県知事、駒場に来たる!!」

 

 「へー、知事が来るんや」高知県について何気なく調べてみた。人口は約72万人、人口減少率は西日本ワースト、けっこう大変らしい。しかし、何がというわけではないけれど、自治体のHPや関連する記事を見ていると、なんだか引っ掛かるものがあった。「なんか面白いかも。」別に根拠があったわけでもない。ただ、不思議な引っ掛かりを覚えたのだ。僕は講演会に「潜る」ことを決めた。

 

 そして、せっかく知事が来るんだ。何か面白い提案をしようと思った。

 

 大学入学以来、こんな調子で「名刺アタック」を重ね、得難い人生のお師匠さん、先輩、経験を得てきたのだ。三重出身の田舎大将だもの、(母校の)先輩は数少ないし、チャンスは待っていても来ないから。

 

 今回、ふと浮かんだのは半年ほど前に考えていた「若者会議」だ。三重県伊勢市で生まれ育った僕は、「地方」について日々関心があるので、(生活費や研究費の支援を頂いている)孫正義育英財団の友人たちと、若い視点を、その地域の出身かどうかに関わらず、自治体の政策決定過程に取り入れるべきだという「若者会議」を地元を中心に提案してきた過去があった。「高知の人たちなら受け入れてくれるんじゃないか」そう思った僕は、友人であり、ライバルの川本亮(アブを使った食品リサイクルプロジェクト・Grubinの代表。この1カ月ほど前に「これからの日本について」アツく語り合っていた)に声を掛け、知事の講演が終わったタイミングで「名刺アタック」をすることに決めた。

 

 この連載は、高知と縁もゆかりもなかった一人の「セミ少年」が、高知の人たちの温かさにふれ、高知にほれ、現実の厳しさを知り、地に足つけて取り組む過程を通して気づいた大切なことを伝えたい、そんな思いで始めるものだ。

 

そもそもお前誰やねん!

 

 ここで少し、自己紹介を。僕、矢口太一は現在、東京大学工学部機械工学科3年生。三重県伊勢市出身。小学校5年生から「セミの研究」をはじめて今年で11年目になる。現在は孫正義育英財団の正財団生として、多方面でのご支援を頂きながら研究などの活動に取り組んでいる。他にも地元三重で県庁との教育プロジェクトを立ち上げたりしている。

 

 周りからは「セミ」として通っている矢口太一が、ふるさとや地方に貢献したい!という思いから始まった取り組み。高知で「あーでもないこーでもない」と言いながら、力になってるんだか、迷惑掛けてるんだかわかんない。でも、そんな僕を温かく受け入れてくれる皆さんとのやり取りの中で、大学にいては決してわからない学びがたくさんあった。その中から一つでも多くを皆さんにお伝えしたい。

 

知事を直撃!

 

 講演会当日。前日夜に提案を川本と書き上げたばかり、遅刻気味に駒場へ向かった。そして講演会終盤、「おい……まじかよ……」せっかくの提案書を印刷し忘れていたことに気づく。大失態である。そんなことを思っているうちに講演会が終わり、知事が足早に教室を出ていく。「ええい構うもんか、いったれ!」

 

「知事、1分時間をください!」

「セミの名刺」を渡し(ちなみに川本は「アブ」の名刺である)、iPadに映した提案を説明。

「面白い、ぜひ高知の枠組みを使ってください」

しかし、頂いた知事の名刺にはメールアドレスがないことに気づく。これでは連絡できない。

「提案書を印刷し忘れてしまったので、メールでお送りしたいと思います。連絡先を教えていただけると..!」 

逆転の発想である(笑)。

 

高知を僕らで変えてやる

 

 そして日を置くことなく、僕と川本は、高知県東京事務所の沖本健二所長、松本和久副所長をはじめ皆さんとの打ち合わせに入った。

 

「君たちの力を貸してほしい」

 

 沖本所長、松本副所長は今までの僕の「公務員」のイメージと違っていた。「やっぱり、高知は何か違うぞ」そう確信した瞬間だった。

 

 「高知県の現状は非常に厳しい。そのことを知ってほしい」中山間地域の過疎化、学校の統廃合、地方の典型的な課題が山積みになっていることを知った。

 

 「まずは東部を見に行ってはどうか」四万十川があるのは西部である。かろうじて室戸という地名を聞いたことがある程度だった。

 

 びっくりするくらいの速さで、高知県東京事務所の皆さんのご支援が決まり、3月中旬に高知に訪問することが決まった。知事に提案をして、2か月が経っていない。

 

 「僕たち、若い力で高知を変えて見せる。「高知若者会議」を作るんだ」鼻息荒く事務所を後にしたのを覚えている。

 

 既存の枠組みも、プログラムも一切ない。筋書きなんて一切ない冒険が始まった。

 

東大入学式上野祝辞 弊社実施のアンケート調査について

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 東大入学式2019・上野祝辞アンケートについて、読者の方から多くの反応をいただきました。その中に調査手法や分析の不備に関するご指摘がありました。

 今回の調査は全ての人を対象としたため、不特定多数の目に触れる媒体を通じ回答を呼び掛けました。その結果、サンプルは各集団から無作為に抽出されておらず、各集団やそれらの比較について結論を導くことは統計的に不適切でした。質問項目にも「理解」や「評価」など一意に定まらない表現がありました。

 弊社は以前もアンケートの不備に関するご意見をいただいており、今回の件を重く受け止めております。今後は社会の公器としての自覚を新たにし、同じ過ちを繰り返さぬよう改善を図ります。

編集部員一同

 

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東大入学式2019・上野祝辞アンケート分析② 回答理由の記述から

東大入学式2019・上野祝辞アンケート分析③ 自由記述紹介前編(ジェンダー編)

東大入学式2019・上野祝辞アンケート分析④ 自由記述紹介後編(強者と弱者編)

東大入学式上野祝辞 依頼した東大執行部の問題意識とは

【セミが見た高知②】人ってこんなに温かい!?

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いざ高知へ!

 

成田空港。第三ターミナルにあるため少し歩く

 

 昨年12月に成田-高知間に初の格安路線が開通した。最安値で5000円前後ということもあり、ぐっと高知との距離も近づいたのだ。「高知若者会議」に向けた初めての高知訪問はその格安航空のJetStarで高知龍馬空港へと向かった。所要時間は80分である。

 

 機内に燃料のにおいがすうーっと入ってきた。到着だ。ただの旅行ではない。緊張している自分がいる。

 

 高知はあいにくの雨だった。空港で傘が売っているものと期待していたが見つからない。諦めて出口に向かうと、そこでは龍馬像が出迎えてくれた。「うん、高知。イメージ通りだ」

 

 長い1週間が始まった。

 

龍馬像がお出迎え。想像にたがわず、高知滞在中は何度も「龍馬」を見ることになる。

 

菜園場に到着

 

 

 バスで高知市内に向かい、ゲストハウスのある菜園場(さえんば)に到着。バス停からすぐのところにある商店街だが、日曜日の昼間にシャッター通り。地元伊勢の商店街と重なった。商店街を少し進んだところにゲストハウス「とまり木ホステル」がある。

 

「とまり木ホステル」オーナー篠田善典さん
 話を聞いている最中にも、オーナーの篠田さんの知り合いが挨拶がてらに店を訪れていた。菜園場の若きキーマン篠田さんの夢は、面白い宿、ここにしかない宿を増やすことだ。

 

 「とまり木ホステル」はオープン1周年の若いゲストハウスだ。地方の典型例だが、菜園場の商店街も年々少しずつ店が閉まり、商店街の高齢化が進んできた。まさに「元気がなくなってしまった」状態だ。そんな中、「とまり木ホステル」の誕生で商店街に「人の集まる場所」ができてきたのだ。実際に「とまり木ホステル」で開催されているイベントも、イベント紹介のクリアファイルがパンパンになるほどの賑わいとクオリティーである。

 

 「地方は超一番にはなれないかもしれない。だけど、一番にはなれる」

 

 たくさんお話を伺った中で最も印象に残った言葉だ。

 

 高知の人たちは本当に温かい。ホステルのオープン時には看板からレンジまでお祝いに用意してくれたそうだ。いい意味で「おせっかいな県」なんだそう。

 

 そして、話の中で意外だったのは、「今のままでいい」と思う人たちが多いということだ。幸せそうに暮らす人たちはたくさんいるし、変にいじらないほうがいい?と思える場面もあるそう。「地方は変えていくべき」という考えを半ば前提として持っていた僕が最初に気づいた「思い込み」である。

 

 嬉しいサプライズだったのが、ゲストハウスで一緒になったみんなとすごく仲良くなれたことだ。夜はみんなで語り合った。年齢もばらばらだし、住んでいる場所も違う。高知には、高知に住んでいる人同士だけでなく、旅の人同士でも打ち解けやすくなる何かがあるのかもしれない。毎日会うクラスメートや友人とは違う、もう二度と会うことはないかもしれない人たちとの交流。だからこそ、変な見えを張らなくていいのかも。人ってこんなにあったかいんだ。

 

ゲストハウスで出会った仲間たち 今でも連絡を取り合っている
※このうちの1人、くまちゃん(写真左端)は、その後僕の家に泊まりに来てくれた!!

 

八百屋のお父さんたち

 

 「よう来てくれたねえ」

 

 菜園場の商店街にある果物屋のお母さんである。お店はご主人と始めて45年。メロンや文旦が店頭に並ぶ。お子さんは大学へ行くために高知を出たため店は継いでいないという。

 

 昔の商店街は本屋さんも布団屋さんも駄菓子屋さんもある元気な商店街だった。

 

 「寂しいねぇ。元気がない。あそこはコンビニになっちゃったしねえ。若い人が戻ってきたらいいのにねぇ。」

 

 そう話すお母さんの目には何が映っていたのだろうか。

 

八百屋のお父さんとお姉さん
高知で出会った大好きなお二人だ。(後半の章にも登場)

 

 そして商店街を路面電車の線路の方へ歩くと八百屋さんが。八百屋のお父さんとお姉さん。世間話をしながら野菜を眺めていると、おいしいトマトの選び方を教えてもらった。 真っ赤なやつじゃなくて、お尻の方に星のような筋が入っているものの方がおいしいらしい。なるほど、うまい!

 

 

 お父さんと話していると、この夏の台風の話に。この前の台風でトマトを作っている農家さんのハウスがやられてしまったらしい。農家の多くは続けられてあと10年という高齢の方がほとんど。あと10年使うかどうかの設備に融資を引っ張るわけにもいかない。多くの農家さんが泣く泣く廃業したそうだ。

 

 その後も何度かお父さんたちの前を通って話すうちに、

「お兄ちゃんとは馬が合うわ」

「次はカツオのおいしい11月にな!」 

高知に、お父さんとお母さんができた瞬間だった。

 

 余談だが、高知市内では自転車に乗っている人を多く見かける。しかも、そのほとんどがクロスバイク。後で聞いた話だが、高知に来た人は焦ってママチャリを買うのだけれど、みんなクロスバイクなので、またまたクロスバイクに焦って買い替えるなんて光景が多いんだとか。

 

ひろめ市場にて

 

ひろめ市場 中に入ればすごい活気だ。世代を超えた交流がある。

 

 高知に来てからなにかと話題に上がるひろめ市場(いわゆる「屋台」やお店が集まった室内施設である。カツオのたたきやウツボのから揚げなど高知ゆかりの食べ物が並ぶ)。入るなり、新鮮な光景が飛び込んできた。

 

 席の横同士で盛り上がっておごったり、おごられたり、至るところで世代を超えて打ち解けていた。「なんか、いい意味で日本ぽくないな」

 

ひろめ市場にて
お父さん(写真右)とは東京での再会を約束。

 

 僕も例外ではなかった。初対面の同世代3人と仲良くなったと思ったら、隣にいた仕事終わりのお父さんと盛り上がり、ピザをごちそうになってしまった。お父さんは高知に単身赴任して2年目だという。とりとめのない話なんだけれど、これがまた面白い。

 

 ひろめ市場では「お兄さんにビール一つ。会計はこっちにつけといて!」こんな声が至るところで聞こえてくるのだ。

 

 こうして違う世代同士で交流して、いろんなことを学んでいく。学生も社会人も、年齢や性別も関係なく、打ち解ける光景がそこにあった。僕も田舎育ちというのもあって、人と仲良くしゃべるのは得意な方だけれども、こんなにも人と人とが打ち解ける光景は高知が初めてだ。

 

「人ってこんなにあったかいっけ?」

 

 きっと高知に来た人は誰もが思うんじゃないだろうか。海も山もきれいだ。食事もおいしい。でも高知はきっと「人」なんだと思う。

 

 そして、そんなひろめ市場は意外に早く23時に閉まる。市場が閉まった後は数時間前までは初対面だった高知大の友達と市内のバーへ。高知の夜は長いのである。

 

文・写真 矢口太一(孫正義育英財団 正財団生・工学部機械工学科3年)

 

【セミが見た高知 シリーズ】

セミが見た高知① 高知県知事、駒場に来たる!!

サーギル博士と歩く東大キャンパス② 本郷キャンパス三四郎池

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 我々が日々当たり前のように身を置いている「場」も、そこにあるモノの特性やそれが持つ歴史性などに注目すると、さまざまな意味を持って我々の前に立ち現れてくる。この連載企画では、哲学や歴史学、人類学など幅広い人文学的知見を用いて「場」を解釈する文化地理学者ジェームズ・サーギル特任准教授(総合文化研究科)と共に、毎月東大内のさまざまな「場」について考えていこうと思う。第二回は、本郷キャンパスの三四郎池だ。

(取材・円光門)

 

ジェームズ・サーギル准教授(総合文化研究科)
14 年 ロンドン大学大学院博士課程修了。Ph.D.(文化地理学)。ロンドン芸術大学助教授などを経て、17 年より現職。

 

人工と自然の絶え間ない闘争

 水質汚染や温暖化に見られるように、我々人間は自然に対して環境破壊という「暴力」を働いている。三四郎池は、そのような我々と自然の間の支配―被支配の関係性を見直す契機を与えてくれるとサーギル特任准教授は言う。例えば池周辺に位置する岩々は、来訪者の足場を不安定にして、人間の思い通りにならない自然の存在を明らかにする。さらに、人間と自然の距離の近さも注目に値する。「三四郎池の美しい自然を目の前にして、我々は自然を利用する対象として捉えるのではなく、自然そのものの在り方を尊重し、それに親しみを覚えるようになるのです」

 

 だが、これは本当の自然だろうかとサーギル特任准教授は問いかける。「地理学者ドン・ミッチェルは、一見自然のように見える多くの風景も実は人の手によってつくられた『表象』にすぎないという、批判地理学(critical geography)的な考え方を提唱しました」。三四郎池の自然はあたかも昔から存在しているかのような印象を我々に与える。だが実際は草木、岩、滝、池に住む魚や亀、鳥の鳴き声といった典型的な「自然」の要素が、まるで美術館のように人工的に配置されているのだ。

 

三四郎池に訪れた人たちに話し掛けてみると「自然がきれいでリラックスできる」という声が多かった

 

 さらに興味深いことは、我々と自然の非暴力的な関係性の構築を促してくれるこのような表象が、そもそも我々が自然に対して働いた暴力を通じて形成されているということだ。三四郎池の美しい環境を維持すること、すなわち池の水を入れ替えたり、雑草を刈ったりと定期的な手入れをすることは、ある意味自然に暴力を働くことである。「あらゆる『維持』は、一定の『暴力』を必要とします」とサーギル特任准教授は指摘する。池の水が汚くなったり雑草が生えることは、自然が人間によって奪われた自分の領地を取り戻すという表れなのだ。

 

 三四郎池における人工と自然の関係は、哲学者ハイデガーの次のような議論によって上手く説明できる。ハイデガーは『芸術作品の根源』という書物で、芸術作品は「世界(Welt)」と「大地(Erde)」の緊張関係の中に生まれると主張した。作品が提示する「世界」は、作品を構成する物体、すなわち「大地」を切り開こうとするが、逆に「大地」は「世界」を覆い隠そうとする。

 

 この議論を三四郎池に応用するとどうなるか。三四郎池という「作品」は、人工的に表象された自然すなわち「世界」と、その構成要素である真の自然すなわち「大地」の緊張関係の中に生まれている。表象としての自然は、真の自然を切り開くことで、言い換えれば自然に暴力を働くことで創り出され、維持されてきた。それに対して真の自然は、表象としての自然を覆い隠すことで、人の手によって奪われたものを取り戻そうとする。このように、我々が尊いと感じる三四郎池の美しさの背後には、人工と自然の絶え間ない闘争があるのだ。

 

 それでは、我々が三四郎池において感じる自然への親しみは、意味のないものなのだろうか。暴力的な背景に支えられた暴力への反省は、空虚なものなのだろうか。そうではないとサーギル特任准教授は言う。「現状がはらむ矛盾をしっかり意識した上で、良い部分は享受すべきです。それが『批判的に考える』ということですから」。三四郎池の自然美を手放しで称賛するのでもなく、それを支える暴力に絶望的になるのでもない。暴力的な背景は認識しつつ、三四郎池が我々に与えてくれる自然への親近感は大事にすべきだろう。それが真の自然保護の精神へとつながっていくのだから。

Take a Walk through Todai’s Campuses with Dr. Thurgill #2 Sanshiro Pond, Hongo Campus

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We, without doubt, lay ourselves in “places,” which, if we heed the specialty of things therein or the history therewith, appear to us as having a variety of meanings. In this serial article, we aim to contemplate various “places” found in Todai’s campuses with the cultural geographer Dr. James Thurgill, who interprets “places” by employing a knowledge of the humanities that spans philosophy, history, anthropology, and so on. Our second meeting is at Sanshiro Pond in Hongo Campus.

(Interviewed, Written and Translated by Mon Madomitsu)

 

Dr. James Thurgill Graduated from the graduate school of University of London in 2014. Ph. D (Cultural Geography). After serving as an assistant professor at University of the Arts London, from 2017 he is a project associate professor of the University of Tokyo.

 

              As can be seen in water pollution or global warming, we humans commit acts of “violence” against nature through environmental destruction. Dr. Thurgill points out that Sanshiro Pond offers us an opportunity to reflect upon such an exploitative relationship between humankind and nature by highlighting the tension that exists between humans and the natural world. We can find demonstrations of nature’s tenacity and resistance to human control all around us, even on a small scale. The rocks positioned around the pond, for instance, are uneven and slippery, making its visitors’ foothold unstable and revealing a side of nature that cannot be controlled by humans.

 

               In addition, the perceived ‘closeness’ between human beings and nature that is felt at Sanshiro is worth mentioning. “With the picturesque nature of Sanshiro Pond before us, we begin to perceive nature not as something we utilize, but instead come to respect the agency of nature itself and feel affection toward it.”

 

              “Is this, however, ‘real’ nature?” questions Dr. Thurgill. “The geographer Don Mitchell proposed a critical-geographical view of landscape, which at a first glance seems to be natural yet, in fact, is nothing but a ‘representation’ made by human hands.” Similarly, the nature of Sanshiro Pond gives us the impression that it has existed from ancient times, that it is somehow organic. Nevertheless, typical “natural” elements, such as plants, trees, rocks, a waterfall, the fish and terrapins living in the pond, and the cries of birds, are in fact artificially curated and managed as if the scene were in a museum.

 

“I feel relaxed in this beautiful natural environment,” said many visitors.

 

              More surprising is that such a representation urges us to construct a non-violent relationship with nature, yet the place itself has actually been composed through the very violence we seek to avoid. In other words, to maintain the beautiful environment of Sanshiro Pond, to execute periodic care such as replacing the water in the pond or removing the weeds in and around it, all mean to some degree that we commit violence against nature. “All forms of ‘maintenance’ apply a certain level of ‘violence’,” states Dr. Thurgill. Yet, the water in the pond gets murky and the weeds still flourish; this is because nature is reclaiming what was taken away by human beings.

 

              This relationship between the man-made and the natural at Sanshiro Pond is reflected in the following argument of the philosopher Martin Heidegger. In his The Origin of the Work of Art, Heidegger posits that a work of art is born from a tension between “World (Welt)” and “Earth (Erde)”. The “World” unfolded by an artwork attempts to cut away from the “Earth” – namely the physical components of the work itself, its raw materials and so on, which together operate to provide the work with context and give meaning to the “World”– yet the “Earth”, in turn, attempts to veil the “World” and hide its meaning.

 

              How, then, can we apply this argument to Sanshiro Pond? Sanshiro Pond, or the “work”, is born from a tension between the artificially represented ‘nature’, or the “World”, and its physical components, namely the ‘real’ nature, or the “Earth” (water, land, trees, etc.). But nature is, of course, only a representation here, a reference to an idealized natural environment, and has been composed and maintained through a physical cutting away of the Earth, through an enacting of violence against nature. Nature, on the contrary, attempts to reclaim that which was stolen by human hands, through “veiling” or hiding itself within the curated representation. As such, behind the precious beauty of Sanshiro Pond is a relentless struggle between the man-made and the natural worlds.

 

              Does it follow, then, that the affection we feel toward nature at Sanshiro Pond is meaningless? Is the reflection upon violence, which is itself realized through violence, completely futile? Dr. Thurgill denies such a view: “We ought to be conscious of the contradictions the status quo contains, yet simultaneously we ought to accept its beneficial points. This is what it means to ‘think critically’.” We are not to praise the ‘natural’ beauty of Sanshiro Pond flippantly, nor are we to feel hopeless about the violence that realizes its beauty. Rather, we need to recognize the violent background on the one hand, but embrace the affection toward nature that Sanshiro Pond offers us on the other; such an attitude can lead us to a better understanding of environmental protection.

 


【セミが見た高知③】んん..思ってたのと違うぞ? セミ現実を知る。

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高知大副学長 受田浩之先生
高知での地方創生に長年携わり、県の産業振興計画の立案に深く関わってこられた、まさに「キーパーソン」だ

 

高知は人 

 

 地方創生と言ったときに、各地方大学の存在抜きに語るわけにはいかない。今回の旅でも、高知で長年地方創生に携わってこられた高知大副学長の受田浩之先生に話を聞きに行った。

 

 開口一番「先生、高知は人が温かいところですね」と僕が言うと、受田先生の表情が和らいだ。「高知を一言でいうならば『人』だと私は思います」

 

 話は前の晩お世話になったひろめ市場に。ひろめ市場の盛り上がりは、全国で多くの市場施設の参考にされているという。しかし、あの雰囲気は食材や土地の違いうんぬんより、高知の「人」がいてこそ。五感に訴える訴求力が魅力の源泉ではないかというのが先生の考えだ。実際、他の施設はほとんどひろめ市場のようにはうまくいっていないのだという。なんだか分かる気がする。あの「人」との距離の近さ、先生はそれを「ラテン系」と言った。実際に行って体感すると、この「ラテン系」という言葉がやけにしっくりくるのが不思議だ。

 

 産業振興計画のキーマンでもある受田先生。知事にも「10年先まで見通しましょう」と進言し、KPI(Key Performance Indicator:目標達成の度合いを計測するための指標)がはやりだす前から、計画内でいち早く設定した。そうして、今では、高知の人たちに「高知が上向いた」と口をそろえて言われる計画を作り上げた。

 

「あなた」から「私たち」に変われるか

 

 そして話題は「地方創生」の核心部分へ。

 

 地方創生には主語が3つのフェーズがある。まず最初は主語が「あなた」の「依存」の段階。次に主語が「私」になる自立の段階。そして、「私たち」になる相互依存へ。

 

 今、高知は相互依存へ移行できるかの局面なのだという。

 

 そして、心に響いたのは、

 

 「矢口君たちがやろうとしていることはまさに『刺激』なんです。その刺激に対する地域の反応はおそらく、『もっと強い良い刺激を』というものになることが多い。依存が深まってしまうんです」

 

 そうだ。「地方創生」という文脈で東大でもFSプログラム(フィールドスタディ型政策協働プログラム:地域の課題解決のための道筋の提案を事前調査、現地活動、事後調査を通じて学生が行う東大の公式プログラム)などがあるが、実態はまさに「刺激」で終わってしまっているのではないか。各地の現場から今までにも聞いていたが、地域では「東大生さま」として丁重に迎えられ、お高く留まった「ご視察」で終わっていないか。それではどこまでいっても、僕たちは「あなた」のままなのだ。この後の日程でこのことを痛感することになる。

 

傷口をえぐる

 

 そんな「刺激」で終わっている例ならまだいい。

 

 地域で生きる人たちは、「泥臭い」取り組みに苦労し、悩み、迷い、失敗しながら生きている。しかし、「地方創生」のために外から来る人の多くは都会からやってきて、提案だけをして帰っていく。どうやって進めていけばいいのかを踏み込んで示すことはまれだし、ともに成功も失敗もしていくなんてことはほとんどないのだろう。

 

 「『なぜこの町はだめなのか』現状を強烈に批判して帰っていく。解決策を示すことなく、傷口をえぐって帰っていくんです」

 

 この言葉を聞いて、胸が痛くなった。自分はまさに「東大生さま」の態度で来なかっただろうか。「優秀な」自分が地方の問題を「簡単に」解決しよう、そんな態度じゃなかったか。お高く留まって、軽い気持ちで、一生懸命その地で生きる人たちの人生に口をはさみに行く。そんなのただの迷惑じゃないか。

 

 誰かの人生にお邪魔をする。そのことの重さを痛感した瞬間だった。

 

個性が光り輝く日本に

 

 雑談の中で出てきた話題で面白かったものがある。福岡伸一さんの動的平衡論の中の√nの法則。母集団nの中で平均から逸脱した個体は√n個あるという法則だ。これを地方に当てはめてみてはどうだろうというのが受田先生のアイデアだ。

 

 この法則で行けば、100万人の都市なら1000人で0.1%、一方100人の村なら10人で10%。地方ほど平均から逸脱した人材が割合として多いことになる。地方ほど、innovativeな人材がいて、個性が光り輝くのではないか。今までの高度経済成長時代とは違う。これからの日本は光り輝く個性がリードする時代じゃないのか。

 

 「変革は辺境の地から。そう言うでしょう?」

 

高知商工会議所

 

 そして、次に向かったのは高知商工会議所だ。両親が三重で会社を経営していることもあり、小さいころから「商工会議所」という言葉をよく耳にしていた。今回は高知市の「商工会議所」に伺い、高知商工会議所の阿部浩之さん、高知県商工会連合会の梅原浩一さんにお話を伺った。

 

高知商工会議所にて。梅原浩一さん(写真左)、阿部浩之さん(写真右)

 

 2008年のリーマンショック以降、全国的には景気が持ち直して好景気だといわれている。実際、僕の両親も商売をしているから、少なくとも「悪くない」という印象を受ける。しかし、全国的に工業出荷額の低い高知では「景気が良くなっている」という実感はほとんどないのだという。

 

 高知として現在深刻な問題は、人手不足。商工会議所への相談内容の半分は人手不足についてだという。かつてはハローワークに求人を出せば集まっていたが、今はそれも難しい。外国人材の必要性は大きいが、特に高知は今までうまく活用できていないのが現実なのだという。

 

後継者問題?簡単ですよ、もうかればいいんです。

 

 そして、商店街でも何度も耳にした後継者問題についても聞いてみると、はっとさせられた。

 

「それは簡単なことで、もうかっていたら戻ってくる。もうかっていなければ帰ってこない。それだけの事なんです。」

 

「後継者問題は、いかに今あるビジネスをもうかるビジネスに変えるかなんです。0から創業するより、少しでもプラスのところからやる方が有利ですよね?今はそれが何千万、何億という借金を背負ってのマイナススタートだから、商売するにしても「継ぐ」という選択にはならないです」

 

 そんな簡単なことさえも見えていなかった。後継者問題を机の上で論じるとき、どうしても「うまくいってるのに後継ぎが見つからない」というケースを頭に浮かべてしまうものだ。それをああでもないこうでもないと考える。でも、本当に「うまく」いっているのなら、従業員だろうが、子供だろうが、誰かは継ぐのだ。要は「うまく」いっていないから後継者がいない。両親が商売をしている姿を小さいころから見ていたはずの自分がこんなことさえ見えていなかったのかと恥ずかしい。

 

 そして、もう一つ印象に残ったことがある。

 

 「東京のベンチャーと地方のベンチャーは全くイメージが違うんです。IT系でばーんと成功してというのはなくて、スキルを磨いて、お店を出して…というのが一般的なベンチャーなんです。」

 

 これも、「東大生さま」が見えてないことの一つかもしれない。

 

文・写真 矢口太一(孫正義育英財団 正財団生・工学部機械工学科3年)

 

【セミが見た高知 シリーズ】

セミが見た高知① 高知県知事、駒場に来たる!!

セミが見た高知② 人ってこんなに温かい!?

連携強化目指すも難航 ITC-LMSとUTASの違いって?

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 東大の学習管理システム「ITC-LMS」と学務システム「UTAS」。ITC-LMSは今年から新システムに移行したが、ITC-LMSが新システムに移行したことはおろか、二つのシステムの機能の違い、並立する理由が分からず混乱する人も多いだろう。ITC-LMSを管轄する情報基盤センターと、UTASを管轄する学務課に取材した。(取材・中井健太)

 

異なる管理主体

 

 ITC-LMSは情報基盤センター学習管理システム(Information Technology Center Learning Management System)の略だ。資料の共有など教育活動の支援に加え、学生、教職員を含めた東大の全構成員を対象とした情報セキュリティ教育の基盤としても利用されている。

 

 2014年3月に運用を開始、前期教養課程の科目、履修者情報の登録を開始した旧ITC-LMSは、15年に全ての学部・大学院の科目、履修者情報を登録。17年には情報セキュリティ教育の提供を開始し、現在のシステムと同程度の機能を備えるようになった。

 

 UTAS(UTokyo Academic affairs System)は、東大の独自の学務システムだ。前身である前期教養課程の「UTask-Web」と後期課程・大学院の「UT-mate」を統合し、17年から現行システムとして運用されている。

 

 情報基盤センターのITC-LMSの運営担当者によれば、ITC-LMSとUTASの主な違いは、利用期間・目的だという。「UTASの重要な役割は成績を含めたあらゆる学籍情報を、卒業後の成績証明などに備えて数十年のスパンで蓄積することです。一方ITC-LMSはタームやセメスター中、教員と履修者のデータのやりとりを支援するのが主な目的です」

 

情報基盤センターへの取材を基に東京大学新聞社が作成

 

 お気に入り登録した科目情報の共有など、UTASとの連携を強化したいと思っても、それぞれの管理主体となる組織や、実際にシステムの管理を外注している企業が異なり、容易でないのが現実だという。ただ、学務システムと学習管理システムが分かれているのは、他大学でも見られる事例だとした。

 

学習データを活用

 

 新システムに移行したITC-LMSだが、基本的にはこれまでのシステムの機能を踏襲している。既存の機能を強化した点としては、アップロードしたレポートなどのファイルをプレビューできるようになった点や、LINEへの更新通知を送れるようになった点がある。

 

 それ以外に機能の強化が図られたのは教育学習データの活用だ。導入から時間がたち、東大でITC-LMSの利用者が増加、相当に普及したことで、より大量のデータが蓄積されるようになった。そこで、ITC-LMS上での学生の操作を記録するLRS(Learning Record Store)というシステムを導入し、教育支援用の外部のシステムやツールなどと連携するための標準規格にも準拠したという。

 

 授業で利用し始めたのは今年の4月から。ITC-LMS担当によれば、まだ解消できていない不具合もあるが、運用上致命的な不具合は存在しないという。

【東大教員と考える日本の問題】日本経済の未来 鍵は家計に

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 「日本経済の未来について、私自身はそれほど悲観していません」。そう語るのは宮尾龍蔵教授(経済学研究科)だ。「日本企業の収益力は上がっていますし、技術を時代の要請に応じて生かす力は十分にあると思います」

 1991年にバブル経済が崩壊して以降、日本は「失われた20年」と呼ばれる長い不景気の時代に突入した。そこで行われていたのは「バブル期に膨らませ過ぎた設備や投資、借り入れなどの『過剰』を縮小する作業」だと宮尾教授は言う。バブル期は企業の収益力や財務状況も良く、不動産価格の高騰や銀行による貸し出し、投資が正当化されやすかった。しかし、バブルが崩壊すると銀行などの貸し出しは不良債権に。その処理は05年ごろまで続いた。

 

 この処理を経て、バブル崩壊以前の90年代初頭には年率約4%あった潜在成長力は現在、約1%まで低下した。日本経済の競争力や地位は低下したように見える。しかし宮尾教授は「日本企業の収益力は上がっている」と語る。「日本企業は、日本だけでなく世界中で収益を上げるようになっています。経常黒字を計上し、日本が海外に持つ対外純資産は世界で最も多くなっているんです」

 

 一方、企業が海外などで上げた収益を労働者や株主に還元しない、いわゆる内部留保の問題もある。これを強制的に吐き出させるべきという議論もあるが、宮尾教授はそれに反対する。「企業は研究開発に投資するなど、独自の成長戦略を通じて日本経済のパイを増やしてくれて」おり、それが労働所得や配当として労働者にも分配されていく。あくまで、規制のない自由な競争がその活動を支えると宮尾教授は考える。

 

 経済の成長力を高める重要な要素には労働、技術革新などもある。労働人口は少子高齢化もあり減少傾向だが、女性や高齢者などの寄与度を上げることで成長力低下を食い止める取り組みが行われている。技術革新は「失われた20年の間も日本企業が努力してきた」分野だという。

 このように、確かに企業部門については、日本企業の未来は暗くないように見える。一方で日本経済の大きな問題点と考えられるのが、家計部門の慎重さだ。企業業績の好調さとは対照的に、家計の消費支出の伸びは小さい。「伝統的な終身雇用の仕組みが壊れつつあって賃金が上がらず『100年安心の制度設計』とはいわれながらも年金などの社会保障にも希望を見いだせない。そのため、多くの人が将来を見通せていないのが実情です」

 

 賃金上昇が抑えられている背景には、経済学で構成効果と呼ばれる非正規労働者が増加したこと、そしてIT技術などの安い資本が労働者を代替してきたことがある。特に若年層でそれが顕著になっており、宮尾教授は子育て世代への給付などを政策によって行っていくべきだと考える。「短期的には財政赤字になるかもしれませんが、将来につながる支出は必要だと考えます」

 

 さらに、宮尾教授は今後広がっていくであろう格差についても指摘する。それは、資産からの所得を得られる人と得られない人、つまり株式などの投資を行っている人と労働所得だけで生活する人の格差だ。企業の収益力は高い一方で労働所得は伸び悩んでおり、配当という形で前者の恩恵を受ける人はより所得を得られることになる。多くの人が恩恵を受けられるように「普通の人でも投資を行って資産形成できる仕組みや環境づくりがもっと必要」だという。(衛藤健)

企業の売上に占める利益の比率は近年改善が続く一方で、労働者に支払われる賃金に当たる現金給与総額は伸び悩みが続いている。(出典:法人企業統計、毎月勤労統計、データは宮尾教授提供)

 「東大教員と考える日本の問題」は、令和という新たな時代を迎えた日本が抱えるさまざまな社会問題について、東大教員に話を聞く新連載です。

宮尾龍蔵教授(経済学研究科)

 94年ハーバード大学大学院修了。Ph.D.(経済学)。神戸大学教授などを経て、15年より現職。10〜15年には日本銀行政策委員会審議委員を務めた。

 


この記事は2019年6月25日号からの転載です。本紙では他にもオリジナル記事を公開しています。

ニュース:衆参両院に請願書提出 英語民間試験利用中止の署名運動
ニュース:格下・学芸大に敗北 アメフトオープン戦 控え選手主体で
ニュース:男女平等に貢献した功績でフィンランドから 上野千鶴子名誉教授に感謝状
ニュース:縄文晩期の人口減少 ゲノム解析で証明
企画:論説空間 代理戦争を超えた見方も 朝鮮戦争から振り返る半島の歴史
企画:中国人記者が見た日中文化の違い 同じ源流 それぞれの進化
新研究科長に聞く:②法学政治学研究科 大澤裕教授
新研究科長に聞く:③総合文化研究科 太田邦史教授
推薦の素顔:小林留奈さん(文Ⅲ・2年→文)
東大CINEMA:『誰もがそれを知っている』
東大教員と考える日本の問題:宮尾龍蔵教授(経済学研究科)
火ようミュージアム:クリムト展 ウィーンと日本 1900
キャンパスガイ:古賀隆博さん(文Ⅱ・2年)

※新聞の購読については、こちらのページへどうぞ。

【セミが見た高知④】ふるさと納税の光と影

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 近頃何かと話題のふるさと納税。

 

 そんなふるさと納税で全国9位、約39億円(平成29年度)もの寄付を集めた自治体がある。人口約3000人の小さな町 奈半利(なはり)だ(東大の新入生は1年間に約3000人、奈半利は全世代で同じ規模なのだからその規模感はなんとなくイメージできるだろうか)。

 

 税収が2億円ほどの町に、突然40億円近い寄付がやってきた。ふるさと納税の光と影、小さな町の今をお伝えする。

 

奈半利へ!

 

 「あなないなすびさんの穴内です」(電車のアナウンス)

 

 「ん!?」電車でうとうとしていた僕は謎のアナウンスにびっくりして目が覚めた。「なんだなんだ??(笑)」

 

 「あなないなすびさん」は穴内駅のご当地キャラ。どうやら、アンパンマンの生みの親、やなせたかしさんの仕業らしい。土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線では各駅にこうしたご当地キャラがいる。高知県はやなせたかしさんの出身地、高知駅でアンパンマンが至るところにいたのを思い出した。

 

 「なはりこちゃんの奈半利です」

 

 高知駅からおよそ80分、奈半利町に到着だ。

 

なはりこちゃん。ちなみに高知県東部で電車で行けるのはこの奈半利まで。この先にある室戸に行くにはバスや車に乗り換える。

 

 今回の旅で共に回ることになっている川本亮(医学部3年、Grubin代表)、東加奈子(経済学部3年、2か月前に食堂でたまたま知り合い意気投合した)とは奈半利で合流することになっていたが、数時間早く着いたため、お昼ご飯を求め1人奈半利の街を歩くことにした。

 

奈半利の一コマ

 

奈半利のママ

 

 奈半利の街を歩くがなかなかお店が見つからない。歩き疲れた末に、昔ながらの喫茶店に入った。店内は一昔前の雰囲気。どこか懐かしい。

 

 そこで、お昼を頂いて一息ついていたが、お店のお母さんと話すこともなく静かな時間が流れた。こちらから声を掛けないと、気まずい沈黙……というよくあるパターンだ。

 

 せっかくなので、思い切って声をかけてみた。

 

 「お母さん、このお店はいつからはじめたの?」

 

 

奈半利のママ

 

 お母さんは奈半利の街で初めての喫茶店を50年前にオープン。昔はたくさん取材が来たんだとか(それくらい喫茶店が珍しかったらしい)。夜には2階のスナックを切り盛りするなど、「奈半利のママ」的存在だ。

 

 ここ奈半利は、かつてカツオ船が水揚げをして大いに繁盛していたそうだ。しかし、今は静岡の方で水揚げをするようになってしまったのだという。そして、一昔前はダムの建設に従事する人達でにぎわっていたが、ダムの完成と共に一気ににぎわいは去って行ってしまった。

 

 「奈半利は特産品とかってあるの?」と聞いてみたが、「あんまりない」のだと言う。

 

 お母さんと話をしていると、常連のお父さんがやってきた。

 

奈半利のお父さん

 

 お父さんは50でサラリーマンを辞めて、なすびを作り始めたという。有名なものはあまりないとのことだったが、奈半利も含めた一帯は”なすび”が有名なのだそう(ただ、観光などで推せるほど有名ではないのも確かだ。”有名”というよりは”特産”といった方が正しいかもしれない)。電車の窓からハウスがたくさん見えていたが、きっとそのうちの一つなのだろう。

 

 そうしてお父さんのなすび作りの話を聞いていると、なんと、お父さんのなすび園、息子さんが継いでくれるのだそう。

 

 「こんなの継いでもいいことないのにな(笑)」

 

 そんなこと言うけどお父さん、今すっごい嬉しそうな顔してるやん!

 

奈半利町役場へ

 

 奈半利町役場は海の近く、小学校の隣にある。川本、東と合流し、待ち合わせの時間まで役場の駐車場で話をしていると、小学校の校庭から声がする。

 

 「誰ー!?どこから来たんー?アメリカ!?(笑)」

 

 元気な奈半利の子ども達だ。なんだか自分の子ども時代を思い出して懐かしくなりながら、待ち合わせに向かった。

 

 今回、お話を伺うのは奈半利町役場の柏木雄太さん。ふるさと納税で奈半利町を押し上げた仕掛け人だ。

 

柏木雄太さん(写真左から3人目)。「絶対に田舎には戻ってきたくない」そう思っていた。しかし、気づけば奈半利町を背負うキーパーソンの1人として孤軍奮闘する日々を送っている。写真左端が川本、右端が東。

 

 人口約3000人の町 奈半利。面積も文京区2つ分ほどの広さで、隣にある田野町など他の自治体との「境目」が(意識の上で)結構あいまい。住人の方のお仕事は主に、農家、漁師、JA、公務員(役場や学校など)。他は町外に通勤しているのだそう。

 

 「町の活性化のためにはふるさと納税に賭けるしかない。」

 

 ふるさと納税の制度が始まったとき、柏木さんはそう確信したそうだ。しかし、何といっても人口3000人の小さな町だ。地場産品といえるものは今までになかった。町の定食屋を回り何か売り出せるものがないかと探す、そんな日々から始まったという。

 

 今までは「生計を立てるため」に作っていたものを、職業として魅力的なものにできないか。そんな想いだった。

 

 そんな試行錯誤の中で生まれたのがゆず豚や米ヶ岡鶏といった畜産の奈半利ブランドだ。ゆず豚は60代のお父さんが、県外に行っている大学生の息子さんに「帰ってきてほしい」という一心で必死に考えた取り組みの結果なのだという。当初はこうしたキーパーソン2〜3件だけで始めたふるさと納税への取り組み、今では40億円に迫る規模に成長した。

 

 奈半利町ではその寄付金を使って、返礼品を作る2つの工場を新設。高知県の取り組みで各自治体にある「集落活動センター」でもふるさと納税に関する作業に取り組んでいる。

 

 「今までは作って終わりという意識だった。安い値で売るか、ご近所に配るか、自家消費するかだったものを、このふるさと納税をきっかけに変えていきたい。」

 

ふるさと納税の影

 

 税収も増え、仕事も増えた。しかし、いいことばかりではない。ふるさと納税で「うまく」いったことによる弊害も大きい。

 

 「ふるさと納税に依存している今は、悪い意味で勘違いしてしまっています」

 

 税収2億円ほどの町に、40億円近くの税収が入ってくるまさに「ふるさと納税バブル」。どうしても奈半利町の抱える根本的な問題に正面から向き合えずにいる。

 

 「結局ふるさと納税で、現状としては何も変わっていない。依存体質のまま。ここから抜け出さなくちゃいけないんです」

 

 高知大の受田先生(セミが見た高知③)の言葉が浮かんだ。「さらなる刺激を求める」ってこういうことなんだな…。

 

 ふるさと納税の返礼品が多くの住民が参画できる形になっているか。今は本来の市場とは違う「ふるさと納税市場」での戦い。まさに「ぬるま湯」の中での出来事なのだ。いつ崩れてもおかしくはない。

 

 そして、ふるさと納税は今年度から制度が厳格化され、返礼品への制限も明確になる。

 

 「奈半利への寄付は間違いなく減るでしょう。本物しか残らなくなる。ガクっと下がったときに本気になれるかどうか……今が勝負なんです」

 

 「地域の若い人たちへ、雇用の受け皿を作りたい」その一心で進み続ける柏木さんと奈半利町。本当の勝負は今、始まったばかりだ。

 

人材不足!

 

 奈半利町を含め、農業などの後継者のほとんどは、イベントなどで呼び込んだ結果、東京から来る人たちばかりだという。

 

 柏木さんの口からしきりに出た言葉、それは「人材がいない/足りない」。

 

 「カリスマ的なキーマンが欲しい。ある素材を見て、ビジネスにできるような人が」

 

 ただでさえ、人口が少ないなかで、子どもは少なく、多くは町外に出て行ってしまう。町を変える人材が1人でも多くこの町に来てほしい。

 

 人口3000人の町。1人の人間が背負う期待と責任は、東京では想像もできないくらい大きい。それは重荷でもある。ただ、「代わりのいる自分」ではなく、1人の人間を必要としてくれる地であることも確かだ。

 

 若い力、外からの力が1人でも増えれば、「分かってもらえないことも多い」という柏木さんのような人たちももっとやりやすくなるのになあ。

 

地方創生の罠

 

 そして、胸に刺さった言葉がある。

 

 「でも、街が応援してくれないとできない人ならそもそもうまくいかないんです」

 

 地方は東京より「劣って」いる、だから補助金や支援を受けて、東京に負けない環境にして、それから……

 

 「地方創生」というと、無意識のうちにそんな意識でいなかったか。補助金がもらえるなら……そんな姿勢では遠くない将来に破綻してしまうだけだ。

 

 東京にない、今は誰も注目していない「宝石」を見つける。これこそが地方の生きる道なんじゃないのか。「東京>地方」の前提で「腫れ物に触る」態度が「地方創生」なのだとしたら、そんなものは上手くいかない。「かわいそうな」地方を助けたい。そんな想いなのならやめておいた方がいいと思った。ふるさと納税の町 奈半利での滞在を通して気付かされた。当たり前のようでいて気付かなかった「地方創生」の罠だ。

 

本音

 

 賛否両論のふるさと納税について、柏木さんは最後にこう漏らした。

 

 「ふるさと納税が都会に不利って言われるけど….戦後から今までずっと、教育するだけ教育して、人材を輩出してきた地方にこれくらいあってもいいんじゃないかって思うよ……」

 

 東大生には都会育ちの人たちが多い。そんな皆にこそ分かってほしい。僕も三重県伊勢市で生まれ育ったから痛いほど分かる。どんどん人が出ていく地方。若い人が日に日に出ていく。この「寂しさ」を。元気がなくなっていく気持ちを。「ああ…昔は元気だったのに…」そんな声を。そんな中で、その地で生きる人たちは懸命に「今」を生きている。

 

星ってこんなにきれいだっけ

 

 そして、お隣田野町の宿泊先へ。柏木さんのご厚意に甘えて車で送っていただいた。

 

 実は、田野町にあるゲストハウスに3人で予約していたのだが、手違いで泊められないというハプニングが。すると宿のお母さんが自宅に泊めてくださるという。

 

 今から向かうと電話を入れると、

「近くのスーパーでうどん買っておいで」

 

 何かな?と思っていると、なんと軍鶏の鍋をごちそうになってしまった!!人生初の軍鶏だったが、これがもうなんと表現していいのか分からないほどにおいしい!

 

お母さん。泊めていただいた分のお金を…と思っていたら「お接待しとくよ!」
温かい、そしてユーモアあふれる最高のお母さんだった!

 

 そして、夜に外に出ると街灯の明かりもほとんどない。あたりは真っ暗だ。空を見上げると、思わずため息が出てしまった。

 

 東京に出てきて2年。忘れていた。夜空の星ってこんなにきれいだったっけ。

 

 朝は軍鶏の鳴き声で目覚めた。さあ、今日も長い一日の始まりだ。 

 

さあ、出発だ

 

文・写真 矢口太一(孫正義育英財団 正財団生・工学部機械工学科3年)

Mail: taichikansei@gmail.com (記事へのご意見大募集中!)

 

【セミが見た高知 シリーズ】

セミが見た高知① 高知県知事、駒場に来たる!!

セミが見た高知② 人ってこんなに温かい!?

セミが見た高知③ んん..思ってたのと違うぞ? セミ現実を知る。

さらなる「タフでグローバル」を求めて【MIT博士課程への進学】

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 はじめまして。米マサチューセッツ工科大学(MIT)化学科の博士課程3年目に在学中の田主陽と申します。私は2014年に理学部化学科、2016年に理学系研究科化学専攻の修士課程を卒業した後、MITの大学院の博士課程に入学しました。今回は大学院特集号への寄稿ということで、私の日米両方の大学院での経験について書かせていただこうと思います。(寄稿)

 

MITのシンボル的建物の「Great Dome」

 

■ 今に繋がっている東大院での経験

 

 日本に所属を残す短期留学や交換留学とは違って、私のMITへの留学は入学から卒業まで現地の学生と同じ条件で過ごし、最終的に博士号の取得を目標とするもので「学位留学」と呼ばれます。

 

 この進路について他人に話すとしばしば「東大の大学院に不満があったから留学したの?」という質問を受けます。実際は、全くそんなことはありません。学部4年生の時から3年間所属した研究室は、今思い返しても素晴らしい環境でした。

 

 私の専門は無機化学で、現在までのプロジェクトは全て目的の機能(スイッチ、蛍光、触媒など、テーマによって異なります)が先にあり、その機能を実現するために最適な分子の構造を発案し、その分子を実際に合成した後に目的の機能が実現できたかを測定によって確かめる、という流れの研究です。研究室配属まで私は学術論文などほとんど読んだこともなく、モチベーションに溢れているとは言い難い学生でした。研究内容への興味よりも「研究室の雰囲気が良さそう」「論文執筆や海外学会など色々な経験ができそう」「それほど厳しくなさそう」といった点を考慮し、あまり純粋ではない動機で研究室を選んだのを覚えています。しかし幸運としか言えませんが、研究室に入って「新しい物質を自分で創り出せる」という化学の最も面白い側面に触れることができ、本当の意味で化学を好きになれたように思います。助教の先生に様々な実験操作を教えてもらいながら、どうすれば成功するかを議論する毎日が楽しくて仕方ありませんでした。

 

 初めての研究経験というのは、その後のキャリア選択に非常に大きく影響すると思います。何カ月も上手く行かなかった実験を試行錯誤の末に乗り越えたこと、筆頭著者で書いた論文が学術誌にアクセプトされたこと、海外学会で発表して他の研究者からテーマの面白さを認めてもらえたこと…。数えるときりがありませんが、研究が楽しいと思える経験を東大では本当に多く積むことができました。アカデミアの世界を志望するようになったのもこの頃ですし、何よりも一流の研究者と接することで研究者という生き方に惹かれるようになりました。

 

 これらの過程の中で、実験・論文執筆・研究発表の全てにおいて一から丁寧な指導を受けられたのも印象的です。学部での専門科目の教育や研究室での初期教育については日本の方が遥かに充実している、という考えは留学後の現在も変わりません。アメリカでは研究室主催者(PI)の他に講師や助教といったスタッフがいないのが一般的で、実験の指導などはポスドクや高学年の大学院生に任されることが多いためです。

 

東大時代に行かせてもらったDenver開催のACS(アメリカ化学会) meetingにて、ACSのマスコットキャラのMoleと

 

■ より成長できる場所を求めて

 

 こう書くと、そこまで良い環境を捨ててなぜ留学したのかと疑問に感じる方も多いと思います。もちろん、そのまま東大の同じ研究室で博士課程に進もうと考えたことも何度もありますし、その選択が間違いでないのも分かっていました。奨学金ももらえそうだし、博士課程の間に留学もできそうだし(東大の大学院の短期留学プログラムは非常に充実しています)、同じ環境・テーマで3年間集中できれば研究成果も安定して出せるだろうと思いました。

 

 ただ一方で、進学後の姿が明確にイメージできてしまい、3年後にアカデミックガウンを着て博士号を授与されている自分に何の疑いも抱かなかったのです。そこで初めて、このままだと修士課程の延長という感覚で終えてしまうかもしれないという不安を覚えました。自分に厳しい人には無縁の悩みかもしれませんが、私は生活に変化が少ないと切迫感が薄れてしまうタイプで、同じペースで成長し続けられる自信がありません。果たして、研究者のキャリアで「修行の時期」と位置づけられる博士課程がそれで良いのだろうか?より新しく、厳しい環境に身を置いて挑戦しないといけないのではないか?そんな疑問が徐々に膨らんでゆきました。

 

 そうして辿り着いたのが、海外、特にアメリカの大学院に進学するという道です。日本との最も大きな違いとしてよく挙げられるのは、アメリカの博士課程の学生のほとんどは大学または研究室に雇われ、学費全額と生活費の保証を約束されるという点でしょう。しかし裏を返せば、当然この好待遇に見合うだけの成果を要求されることを意味し、入学前も入学後も激しい競争を強いられます。そんなアメリカのトップスクールなら、東大以上に自分は成長できるのではないか──期待と憧れの混じった気持ちで、私は訪れたこともない街の大学院の門を叩きました。出願準備はハードでしたが、このようなポジティブな気持ちが決断の理由だったからこそ乗り越えられたと思います。

 

取材を基に東京大学新聞社が作成

 

■ MITの競争的環境で研究に没頭

 

 そして、MITでは期待を遥かに凌駕する経験が待っていました。洗練されたカリキュラムと研究設備、高いモチベーションを持った同僚が揃い、セミナーでは毎週のように超有名化学者が講演に訪れます。特にアメリカの大学院の講義は充実しているとは渡米前から聞いていましたが、単に内容が濃い、課題が多いというだけではなく、非常に工夫して教えられているのを感じました。教授の評価において授業も大きな部分を占めること、教授自身も優秀な学生を見抜いて雇いたいこと、TAの大学院生はそれによって学費と生活費を賄われるため相当な仕事量になること、などがプラスに働いているように思います。

 

MIT化学科に設置された周期表のオブジェ

 

 一方でシビアさもあり、面白い研究には共同研究の誘いが次々と舞い込む一方で、つまらない研究は見向きもされません。給料を出して雇われていることもあり、大学院生でもある程度独立した研究者として扱われるため、成長するもしないも自分次第です。5年目を越えても卒業の見通しが一向に立たない人や、大学院の途中で研究室を出ていくことになった人もこれまでに見てきました。また、自分のキャリア向上を第一に考えるばかりなため競争がとにかく激しく、共用器具の使用を巡りトラブルは尽きませんし、研究室内でアイデアを盗まれそうになったこともあります。1年目はコースワークに加えて教授に雇ってもらうためのアピールが必要、2年目はQualifying Exam(2回落ちると退学が決まる口頭の試験)があり、3年目からは研究成果をさらに求められるため、常に何かしらのプレッシャーは感じている印象です。

 

 それでも、私が博士課程に求めていたものは確かにそこにありました。化学研究のレベル自体で日本がアメリカより劣ると思ったことは一度もありませんが、若手研究者が自分の研究室を持ちやすい傾向(私の指導教官も30代です)もあってか、活気とスピード感は段違いです。印象深かったのは私の研究テーマで大きなブレイクスルーがあった時で、指導教官はデータを報告した翌日には学科内の別の教授に話してフィードバックをもらっていましたし、翌週にはオハイオの研究グループに電話をかけて共同研究をスタートさせていました。徹底的な実力主義をとっている分、競争に生き残れさえすれば本当に素晴らしい研究環境で、充実した毎日を送れています。

 

MITのマスコットキャラのTim the Beaverと

 

■ 学位留学の意義とは?

 

 ただ、個人的には留学して変わったと感じたのは研究環境だけではありませんでした。最近は大学院留学説明会などの活動に関わっていることもあり「短期留学や交換留学にない学位留学の価値は?」という質問をよく投げかけられます。人によって答えは違うものの、学生に給料が出ることや研究環境の違いを答えとする方が多い印象ですが、果たしてそれだけなのでしょうか。

 

 私の場合「留学して良かった」と心から思えるまでに実は2年近くかかりました。特に辛かったのは留学開始から半年後の冬です。最初の学期は出会うもの全てが新鮮で本当に楽しかったものの、それを過ぎた頃に慣れない研究テーマ・研究室の文化の中で実験が思うように進まず、英語も上達している実感も湧かず、順調に見える周りとの競争に勝てる気もせず、ボストンの寒さもあって精神的にかなり落ち込んだ時期がありました。自分は何をしにここに来たんだろう、海外の研究環境を体験するだけなら短期留学やポスドクの期間でも良かった、もう日本に帰って就職しよう、などと、今では考えられないくらいネガティブな気持ちになったこともあります。

 

雪が積もるキャンパスは美しいものの、本当に寒い

 

 「もう一日だけ頑張ってみよう」と思っている間に、 支えてくれた人達がいたおかげもあって状況が好転し乗り越えることができましたが、私にとってはおそらく一生忘れられない体験です。恥ずかしいことですが、それまで築き上げた自信が脆いものだったことも、自分が精神的にとても弱い人間だったことも、ここで初めて知りました。そして、その後似たような難題にぶつかる度に、辛かった時期を乗り越えたこの経験が支えになってくれているのを感じます。同じ留学でも、帰る場所も時期も決まっていれば、結果が出ない時期に精神的に追い込まれることも、それを乗り越えようと必死で努力することもなかったでしょう。自らに挑戦を課し、それを乗り越えることによって得られる成長こそ、「日本からのお客さん」ではない対等な環境に飛び込んで長期間勝負する学位留学の最大の意義だというのが私の意見です。

 

 加えて思うのは、留学という体験を客観的に捉えるためには、ある程度の期間が必要だろうということです。私は留学当初、アメリカの大学院のシステムは本当に合理的で、日本はどうしてこうならないのだろうと思ったこともありました。しかし一見効率的に見える制度でも、実際には大きな負担をかけているのが問題になっていたり、形骸化していたり、時には日本の方式を取り入れればいいのにと思うことさえあります。そしてその中には、外から見たり説明を受けたりだけではなく、実際に近くで体験しないと理解できない点もたくさんありました。長期間滞在することで留学先の良い面と悪い面の両方を経験し、徐々にフラットな視点を持つことができるのも学位留学のもう1つの魅力だと思います。

 

 もちろん、この先私がスムーズに博士号を取得できる保証はないですし、留学がその後のキャリアに良い影響を与えるとも限りません。それでも学位留学やMITへの進学という選択自体を後悔することはないだろうと思えるほど、得たものは本当に多いです。ちなみに、先日のイチロー選手の引退会見で少し近いニュアンスのことをインタビューのへの回答で語られていて感動しました。とても説得力があり素敵な言葉だったので、観ていない方はぜひ。

 

大学から見えるボストンの街とチャールズ川の景色

 

■ 在学生へのメッセージ

 

 最後に在学生の皆さんへメッセージを。日米の大学院について、私はどちらが優れているとも思っていません。むしろ「どちらが上か」といった短絡的な答えを求めなくなることが学位留学の一番の収穫かもしれません。徹底した実力主義のアメリカの大学院は自分の力を試したい人には最高の場所だと感じますが、落ち着いた環境で腰を据えて研究した方が力を発揮できる人というのも確実にいます。考慮すべきは、自分が大学院に何を求めているか、自分に何が合っているかでしょう。ただし、アメリカの大学院に向いているかを決めるのは英語力や海外経験ではなく、競争や挑戦を楽しめる気持ちがあるかだというのが私の意見です。そしてこれは、東大を受験した皆さんには既に備わっているマインドではないでしょうか?

 

MITとハーバード大学があるボストンには日本人が多く、特に東大出身者の同窓会は毎回50人以上が集まるほどです (Greater Boston UTokyo Alumni Clubより許可を得て掲載)

 

***

田主さんも登壇する7月21日の大学院留学説明会について、以下のページでイベント情報を掲載しています。

海外大学院留学説明会@東京大学「知は国境を越える」2019年7月21日

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